そしてまたご一緒に

祥月のお参り中、いつもふらっとやってくる近所の酔っ払いのおっさんが入ってこられました。けど、お勤め中とわかるとさすがにお御堂の外に出てチンとしておとなしく待ってらっしゃいました。
お参りが終わって、ご参拝の方が帰るとき「おれお東やけどこいつ好きやねん」って話しかけられてて、ツンデレか。参拝の方も苦笑い。
で、正装している慈海の格好を見てか、なんだかかしこまって「入って…いいけ?」とかわいらしい。いつもの「おーーーい!にゅうどぉおおおお!!」のテンションはどうした。
「なんや、蓮如さまの前で手も合わさんと。ちゃんと座ってご挨拶せんかい」
「お、おぅ」
帽子を脱いで正座して神妙な顔つきです。
なまんだーぶなまんだーぶなまんだーぶ
二人で大声でお念仏。振り返って
「おうおう、おっさん、酒臭い匂いさせてやんちゃばっかやってなぁ、でもよかったなぁよう仏さんにあわせてもろたなぁって、蓮如さんおっしゃってるかもね」
と言うと途端に表情を崩される。そしてまたご一緒にお念仏。
今日もバタバタしてゆっくりお話はできなかったけど、満足そうに帰っていかれる後姿にまた合掌してお見送りする。
蓮如さま、今日は吉崎賑やかですねぇ。
なんまんだぶ

だからねぇ……

今から三十年ほど前、行信教校OBの方々が、吉崎別院で泊まり込みの勉強会を開いていらっしゃったそうです。
そのとき、梯和上が講師となられていらっしゃったそうで、和上がお忙しくなられた後は天岸先生がいらっしゃっていたそうです。
その話は聞いたことがあったのですが、今日改めて当時の話を聞かせていただいて、梯和上もここにお泊りになられていたと聞きました。
「だからねぇ、みぃんな一生懸命生きてるんですよ。あーでもないこーでもない言いながら、必死にねぇ生きてるんですよね。」
そんな話を、ここで夜通しお話しされていらっしゃったのでしょうか。この部屋で、この布団にくるまって、後生のお話をあーでもないこーでもない言いながらされていらっしゃったのでしょうか。
数年前、熱を出して寝込んでいた時に、すでに往生されていらっしゃった和上が出てこられたことがありました。
多くの方に囲まれていらっしゃった和上が、講堂に入られる前、私の前を通り過ぎるときに、私の方に振り返って
「あんた、本当に死にきることができますかいな?」
と、目じりの下がった優しい笑顔でそう声をかけてくださいました。
和上にお会いしたのは1度しかありませんが、東京にいた時から何度も何度も何度も和上がお取次ぎくださったたった数話のご法話の録音を携帯に入れて聞いています。何百回…は大げさかもしれませんが、本当に何度も何度も同じお取次ぎを聞いています。
何度聞いても、聞くたびに聞こえるところが違って、何度聞いてもお念仏がこぼれます。
あの声の主が泊まられた場所に、今住んでいるのかと思うと、なんだか不思議な気分になります。
あぁ、きっとおあさじの時にはいつもご一緒にお御堂にいらっしゃるのかもしれない。当時まだお若かった先生方と一緒に、毎朝おあさじお勤めさせてくださっているのかもしれないなぁとか思うと、胸がちょっときゅぅとなります。
なんまんだぶ

忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

今日は母の誕生日。
ちょっとやりたいことがたくさんあるし、どうせ顔を見せても忘れちゃうし、電話だけにしようと思ったけど、あと何回母の誕生日に一緒に食事できるかわからないしなと思いなおして、実家に行ってきました。
外食をすることになり、それならお客さんが少ない時間がいいだろうとお昼時を避けてお寿司屋さんへ。
人目があると躁状態になって、ほかのお客さんや店員さんに迷惑をかけてしまったり、トラブルになることもあるので、外食するときにはいつも空いている時間を狙って行くようになりました。
せっかくの誕生日だから、母が好きそうな少しお高いお寿司を頼んだりしていると、母は「こんなもったいない。あんた食べね」と私や父に食べさせようとします。
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
「今日?えっと、ちょっと待って」
そういって携帯を取り出し
「あらぁ?今日6月6日かぁ?あらぁ!」
「ほやぁ(そうだね)、6月6日は何の日やの?」
「うふふ。。。私の日やのぉ!あらぁ!」
「だから、これ(豪華なお寿司)はお母さんのやざぁ。食べねの」
「あらぁ…ありがとう。うれしいんや!」
そういって嬉しそうに一口食べると
「なんかこんな豪華なの悪いんや。あんた食べねの?」
とまた私に食べさせようとします。
そのたびに
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
と先ほどの会話のふりだしに戻っていきます。
今日一日で、何度今日が母の誕生日だと教えたでしょうか。そして、今日一日で、何度母は自分の誕生日だと知って喜んだでしょうか。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も忘れて、
何度も、何度も、何度も、何度も、よろこんでいました。
一年に一度しかない誕生日で、これだけ何度もそれを喜べるのは、ちょっとうらやましいなとも思えました。
忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです。
忘れるってことは、常に新鮮な中で生きていることなのかもしれません。
それを、悲しいこと、寂しいこと、つらいことのように周りが評価してしまうことのほうが、実は一番寂しいことなのかもしれません。
きっと今頃は、母はもうすでに先ほど一緒にお寿司を食べたことも、今日が誕生日だということももちろん忘れてしまっていると思います。
そのたびに、きっと父が何度も何度も何度も今日が誕生日でお寿司屋さんに三人で行ったことを話して、また何度も何度も喜んでくれるのかもしれません。
少ししか顔を出せませんでしたが、行ってよかったなと思います。
なんまんだぶ

それでも、そのままに照らされていると聞かされることは

おあさじの時に、お荘厳がまぶしく輝くときがあります。

太陽の角度とお天気の影響でしょうが、それでもなんとも美しくて、かたじけなくもったいない気持ちになります。

昨日は衣替えでした。

季節が変わり気温が変わると着ている装いを変えていかなければなりません。春が来れば春服に、夏が来れば夏服に、秋が来れば秋服に、冬が来れば冬服に。

環境に合わせて装いを変えるのは、着ているものだけじゃありません。TPOとかいいますけど、状況に合わせて世間に合わせて、私というものはその都度言葉やふるまいといった装いを変えていかざるを得ないものです。

周りの目を見て、空気を読んで、その時その状況に合わせて生きているのが私です。

あ、ちなみに、周りに流されない自分というのも、周りに流されない自分っていうのがカッコいいという世間の風潮に合わせた姿っすからね。

そんな私自身が、「本当の私」とかいう幻想に追い回されてふらふらしたままに、照らされている世界があります。

それは、聞いた話でしょうか。聞かされた話でしょうか。

それでも、そのままに照らされていると聞かされることは、なんともかたじけなくてもったいない気持ちになります。

なんまんだぶ

門の方に向かって少し手を合わせ

外掃除をしていると、年配のご夫婦がお参りに入ってこられました。

「ようこそのお参りです。どちらからいらっしゃったんですか?」

いつものように声をおかけすると、大阪からいらっしゃったとのことでした。親戚が近くにあるので、来たついでにお参りに来られたそうです。

「それはそれは!ようこそようこそ。せっかくなので、お土産に私の好きな歌をお聞かせしてもよろしいですか?」

そういって、

“引く足も称える口も拝む手も弥陀願力の不思議なりけり”

の歌をご紹介し、少しその歌の心についてお話しすると

「三年前にもお御堂でお話ししてくださいましたね」

とおっしゃるのです。

「えぇ!それならそうおっしゃってくださればいいのに!」

「いえいえ、せっかくだからもう一度聞こうと思って」

そんな感じで15分ばかり境内で仏さまのお話やら世間話をして「ぜひまた来てくださいね」「また来ますね」とご挨拶しながらお帰りになって行かれました。

お帰りになられた後、三年も前のこと、憶えていてくださったんだとちょっとうれしくなって、門の方に向かって少し手を合わせて、お念仏していると、本堂前に住み着いているモリアオガエルが「ぐわぁ ぐわぁ」と一緒にお念仏してくださいました。

なんまんだぶ

晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って

「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」

晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って、ぼんやりと阿弥陀様を眺めているのが好きです。

ぶつぶつお念仏をつぶやくと、お御堂に反響してすごく気持ちがいいです。

信心も安心も知らないまま、ただお念仏をつぶやいて「これが御恩報謝かぁ。ふーん」と、なんまんだぶ なんまんだぶ とつぶやいてます。

「泣きながらお念仏をしたことがありますか?」
そんなことを人に尋ねて回ったこともありました。めんどくさいと言われたり、はぐらかされたり、時にはそういうのはよくないとたしなめられたりもしました。

そんなある時
「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」
という言葉を教えてもらいました。

私のお念仏は不安の叫びなのだと知りました。
私がお念仏のことを考えていることは、観念の遊戯なのだと知りました。

今朝そんなことをぼんやり思い返しながら、不安に叫ぶ声も、観念の遊びも、御恩報謝として聞いてくださるんやろうなぁ。知らんけど。とか思いながら、ぶつぶつお念仏をしていました。

お御堂に一人座り、こうやってお念仏に遊ばれる時間というのは、とても楽しい時間です。

なんまんだぶ

お勤めと掃除が人生

昨日は、高熱で一日動けなかった、ってことにして事務仕事を封印。伸び放題になっていた境内の草刈りや、掃除に集中してました。

汗をぬぐいつつ箒を振っているとすぐに腕がだるくなってきて、運動不足を実感しました。案の定今朝は少し筋肉痛。こりゃサボりすぎたわ。

外に出てるとお参りの方とお話しする機会も増えるし、仏さまのお話を井戸端会議みたいな感じでできるチャンス(?)もできます。

慈海の仕事道具は、パソコンでも文房具でもなくて、やっぱり箒と雑巾だったなぁと改めて思いました。ちょっと事務に振り回されていろいろ煮詰まりすぎていたかもしれません。

事務仕事も頑張ります。けどお寺の仕事の中心はやっぱり、お勤めと掃除だよなぁ。お勤めと掃除が人生ですよ。いや事務もちゃんとやるけどね。

なんまんだぶ