月別: 6月 2020
だからねぇ……
忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです
それでも、そのままに照らされていると聞かされることは
おあさじの時に、お荘厳がまぶしく輝くときがあります。
太陽の角度とお天気の影響でしょうが、それでもなんとも美しくて、かたじけなくもったいない気持ちになります。
昨日は衣替えでした。
季節が変わり気温が変わると着ている装いを変えていかなければなりません。春が来れば春服に、夏が来れば夏服に、秋が来れば秋服に、冬が来れば冬服に。
環境に合わせて装いを変えるのは、着ているものだけじゃありません。TPOとかいいますけど、状況に合わせて世間に合わせて、私というものはその都度言葉やふるまいといった装いを変えていかざるを得ないものです。
周りの目を見て、空気を読んで、その時その状況に合わせて生きているのが私です。
あ、ちなみに、周りに流されない自分というのも、周りに流されない自分っていうのがカッコいいという世間の風潮に合わせた姿っすからね。
そんな私自身が、「本当の私」とかいう幻想に追い回されてふらふらしたままに、照らされている世界があります。
それは、聞いた話でしょうか。聞かされた話でしょうか。
それでも、そのままに照らされていると聞かされることは、なんともかたじけなくてもったいない気持ちになります。
なんまんだぶ
門の方に向かって少し手を合わせ
外掃除をしていると、年配のご夫婦がお参りに入ってこられました。
「ようこそのお参りです。どちらからいらっしゃったんですか?」
いつものように声をおかけすると、大阪からいらっしゃったとのことでした。親戚が近くにあるので、来たついでにお参りに来られたそうです。
「それはそれは!ようこそようこそ。せっかくなので、お土産に私の好きな歌をお聞かせしてもよろしいですか?」
そういって、
“引く足も称える口も拝む手も弥陀願力の不思議なりけり”
の歌をご紹介し、少しその歌の心についてお話しすると
「三年前にもお御堂でお話ししてくださいましたね」
とおっしゃるのです。
「えぇ!それならそうおっしゃってくださればいいのに!」
「いえいえ、せっかくだからもう一度聞こうと思って」
そんな感じで15分ばかり境内で仏さまのお話やら世間話をして「ぜひまた来てくださいね」「また来ますね」とご挨拶しながらお帰りになって行かれました。
お帰りになられた後、三年も前のこと、憶えていてくださったんだとちょっとうれしくなって、門の方に向かって少し手を合わせて、お念仏していると、本堂前に住み着いているモリアオガエルが「ぐわぁ ぐわぁ」と一緒にお念仏してくださいました。
なんまんだぶ
晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って
「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」
晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って、ぼんやりと阿弥陀様を眺めているのが好きです。
ぶつぶつお念仏をつぶやくと、お御堂に反響してすごく気持ちがいいです。
信心も安心も知らないまま、ただお念仏をつぶやいて「これが御恩報謝かぁ。ふーん」と、なんまんだぶ なんまんだぶ とつぶやいてます。
「泣きながらお念仏をしたことがありますか?」
そんなことを人に尋ねて回ったこともありました。めんどくさいと言われたり、はぐらかされたり、時にはそういうのはよくないとたしなめられたりもしました。
そんなある時
「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」
という言葉を教えてもらいました。
私のお念仏は不安の叫びなのだと知りました。
私がお念仏のことを考えていることは、観念の遊戯なのだと知りました。
今朝そんなことをぼんやり思い返しながら、不安に叫ぶ声も、観念の遊びも、御恩報謝として聞いてくださるんやろうなぁ。知らんけど。とか思いながら、ぶつぶつお念仏をしていました。
お御堂に一人座り、こうやってお念仏に遊ばれる時間というのは、とても楽しい時間です。
なんまんだぶ
お勤めと掃除が人生
昨日は、高熱で一日動けなかった、ってことにして事務仕事を封印。伸び放題になっていた境内の草刈りや、掃除に集中してました。
汗をぬぐいつつ箒を振っているとすぐに腕がだるくなってきて、運動不足を実感しました。案の定今朝は少し筋肉痛。こりゃサボりすぎたわ。
外に出てるとお参りの方とお話しする機会も増えるし、仏さまのお話を井戸端会議みたいな感じでできるチャンス(?)もできます。
慈海の仕事道具は、パソコンでも文房具でもなくて、やっぱり箒と雑巾だったなぁと改めて思いました。ちょっと事務に振り回されていろいろ煮詰まりすぎていたかもしれません。
事務仕事も頑張ります。けどお寺の仕事の中心はやっぱり、お勤めと掃除だよなぁ。お勤めと掃除が人生ですよ。いや事務もちゃんとやるけどね。
なんまんだぶ