「聞見会」という名称

「聞」

「百聞は一見にしかず」という言葉があります。

百回聞いたとしても、一回見ることと変わらないという意味です。
つまり、聞くことよりも、見ることの重要性をあらわしたことわざです。

しかし、見ることができないものは、聞くしか仕方ありません。
見えんもんは、聞くしか無いのです。
であれば、「百聞は一見にしかず」とのとおり、百回聞いたら一回見たのと同じことともいえるかもしれません。*

さて、この「聞見会(もんけんかい)」の会名にある「聞見(もんけん)」とは、涅槃経にも見られる仏語です。
自らの眼で見て明らかに認知することを「眼見(げんけん)」、聞いて理解し信知することを「聞見(もんけん)」といいます。

『涅槃経』にはこうあります。

見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。

これは、諸仏は一切衆生の仏性を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(一説にはマンゴーの実)を見るように、はっきりと知ること(眼見)ができるが、十住という位以前の菩薩等はそれができない。
しかし、仏の教法を聞くことで自らの仏性を知ることができる(聞見)である。
というお示しです。

浄土真宗では、この「聞」ということをとても大事にしています。
お覚り、仏、真実というものを、この眼でつぶさに見て知り得ることのできないこの我に、仏の方から、「可聞可称(かもんかしょう)」、聞くことができ、称えることができるすがたと成って至ってくださったのが、お念仏であります。

これを、供によろこび、そしてまた、供に なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ とお念仏をこの耳に聞く会(会座)という意味を込めて、この会の名称を「聞見会」としました。

【参考】
wikiarc 「聞見」

*そもそも念仏の数にこだわる方ほど、一念多念を仰る方がいますが、いわずもがな、ここでは眼見と聞見の意を出すためのたとえです。