学習能力が無い

ハサミって、なんでいつもどっか行っちゃうんでしょう。ちょっと使いたくて、机の引き出しを開けると、たいていそこにはありません。どこに片付けたっけ?と、あちこち探すのですが結局見つからなくって、渋々新しいのを買いなおした後に、何度も何度も確認したはずの引き出しの中にあるのを見つけたりして、がっくりとうなだれます。なんなんですかね。ほんとに足でも生えてるんやないでしょうか。

ハサミに限らず、私はいろんなものをしょっちゅう無くします。財布であったり、携帯であったり、車のカギであったり、ハンコであったり……。借りた本とかDVDなんて、見当たらなくなった時にはとても焦ります。さらには、仏さまからお借りしている大切なお念珠や輪袈裟が見当たらなくて大いに慌てたことも何度かあります。

そして、ちゃんといつも身辺をきれいに整えていればこんなことにならないのにと、毎回後悔します。深く深く後悔します。そして数日後には「あれ?どこやったっけ?」とまた慌ててあちこちウロウロ、ガサガサ、ドタバタとし始めます。困ったものです。本当に困ったものです。私って、ほんと、学習能力が無いんでしょうか。

私の母もよくものを無くします。認知症の症状が進んで、近頃は一日の大半は何かを探しています。「私もうアカンわ」と嘆きながらウロウロ、ガサガサ、ドタバタと探し続けます。そのうち何を探しているのかも忘れてしまって、それでもその忘れてしまった「何か」を探し続けます。

「あらぁ?私今何探してるんやったっけの?」
そんなことを言いながら、”何を探しているのかを探す”ためにかばんをひっくり返し、布団をひっくり返し、タンスをひっくり返し……、仏間と台所と寝室とを何度も何度も行ったり来たりして、また「私もうアカンわ」と言い続けます。

そして、やっと探し物(探していたはずの物)が見つかると、ホッとした顔をして「あぁよかった。あぁーよかったぁ!」とよろこびます。安心した顔をします。安心するのですが、しばらくするとまた別のものを探し始めています。

そんな母の様子が、なんだか常に自分から「不安」を探しに行っているように思えて、不安を探している状態がある意味「安心」なのかなと思う時もあります。いや、本人にそんなことを言ったら怒られるかもしれませんし、不安であること自体は本当なのでしょうけど。でも、それって、私もまた同じかもしれません。

「良い人」に見られる自分を探して、「仕事のできる人」「賢い人」「思慮深い人」「誠実な人」「真面目な人」「信心深い人」……と思われる自分を探して、かばんをひっくり返し、布団をひっくり返し、タンスをひっくり返し……、仏さまのところに行ってみたり、日常生活の中の身振り手振りを見直してみたり、言葉遣いに気を付けてみたり、心構えを強く持ってみたりしながら、ずっとずっと「人から見られる自分」を「本当の自分」のように思い込んで、ウロウロ、ガサガサ、ドタバタとし続けているようにも思えます。

そして、仮の「信心」と自ら名付けた拠り所のようなものを見つけたと思っても、すぐにまたその「信心」とやらを雑に放り出して別の「心の拠り所」を探している姿を「無明」というのでしょうか。

そんな自分を、私は「あさましい」と思い、そんなあさましい私を仏さまは「凡夫」とお呼びくださる。私の名前は「凡夫」だそうです。名付け親は如来様です。その、いつまでたってもこのままではいられない凡夫に、不安をつかんでいなければ落ち着くことのできない私に、如来様は「なんまんだぶ」と聞こえてくださる、そうです。

よー知らんけど。

なんまんだぶ