一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。
(勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさい。念仏といっても自力と他力とがある。自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。)
<蓮如上人御一代記聞書 より>
年が変わったからといって、何かが変わるわけでもありませんが、それでも新年を迎えるというのは、心新たな気持ちにさせてくださいます。
初参り、初詣、いつもは足の向かなかったところに足を向け、いつもはそれほど合わすことのなかった手を合わせ、いつもは思い馳せることのなかった佛や神に気持ちを向けることのできる、時節かもしれません。
年齢の数え方として、現代の数え方では、生まれた日を起点としてゼロ歳から数えますが、昔は母体産まれた年を1歳とし、歳をとるのは正月であったそうです。正月は、新しい年と始まりと同時に、新しい「歳」の始まりでありました。その数え方を「数え」と言ったそうで、今年慈海はその「数え」で四十三歳となりました(現代の数え方では、まだ四十一歳、誕生日が来ると四十二歳となります)。
冒頭の文は、『蓮如上人御一代記聞書』のなかの一節です。
浄土真宗に馴染みの深い方であれば、よく正月の挨拶やご法話などで耳目にすることが多い一節かもしれません。
“道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。”
貴方様は、今年でおいくつになられましたでしょうか?
どうか、どうか、お念仏申されませ。
なもあみだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
さて、昨年末とある方が遠方より福井にお越しくださいました。
「お念仏できる場所はございませんか?」
そうおっしゃるその方を、本願寺福井別院、そして吉崎別院にご案内し、供にお念仏申し、後生話に花を咲かせたことでございます。
聞見会は、「安心してお念仏腹いっぱいできる場所」を作りたいという思いから、立ち上げた会でありましたが、昨年は特にあまり活動的ではありませんでした。慈海の怠惰ゆえです。申し訳なかったです。
「安心して不安でいられる場所」
お念仏ができる場所というのは、そういう場所であります。
一般的に言われるような社会活動にあまり積極的な思いのない慈海ではありますが、念仏者にとっての唯一の「社会」での活動というのは、「安心してお念仏ができる場所」を作っていくことであろうと、慈海は考えています。
どうか、今年も会員の皆様、全国の「念仏者」の方々のお力をお借りして、より「安心してお念仏腹いっぱいできる場所」を作っていけたらと考えています。正直に申し上げて、言葉だけが先立ち、どう動いて良いのか、どうしたらそういう場所を作っていけるのか、手探り状態の慈海ではありますが、どうかみなさまのお力をお貸しください。
聞見会は、お念仏をされる方の会と思っております。
今年も、また多くの方々とともに、仏智に驚き、大悲を嘆じ、お念仏よろこぶことができたらと思っております。
合掌
聞見会代表 釋慈海 拝
なもあみだぶ