忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

今日は母の誕生日。
ちょっとやりたいことがたくさんあるし、どうせ顔を見せても忘れちゃうし、電話だけにしようと思ったけど、あと何回母の誕生日に一緒に食事できるかわからないしなと思いなおして、実家に行ってきました。
外食をすることになり、それならお客さんが少ない時間がいいだろうとお昼時を避けてお寿司屋さんへ。
人目があると躁状態になって、ほかのお客さんや店員さんに迷惑をかけてしまったり、トラブルになることもあるので、外食するときにはいつも空いている時間を狙って行くようになりました。
せっかくの誕生日だから、母が好きそうな少しお高いお寿司を頼んだりしていると、母は「こんなもったいない。あんた食べね」と私や父に食べさせようとします。
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
「今日?えっと、ちょっと待って」
そういって携帯を取り出し
「あらぁ?今日6月6日かぁ?あらぁ!」
「ほやぁ(そうだね)、6月6日は何の日やの?」
「うふふ。。。私の日やのぉ!あらぁ!」
「だから、これ(豪華なお寿司)はお母さんのやざぁ。食べねの」
「あらぁ…ありがとう。うれしいんや!」
そういって嬉しそうに一口食べると
「なんかこんな豪華なの悪いんや。あんた食べねの?」
とまた私に食べさせようとします。
そのたびに
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
と先ほどの会話のふりだしに戻っていきます。
今日一日で、何度今日が母の誕生日だと教えたでしょうか。そして、今日一日で、何度母は自分の誕生日だと知って喜んだでしょうか。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も忘れて、
何度も、何度も、何度も、何度も、よろこんでいました。
一年に一度しかない誕生日で、これだけ何度もそれを喜べるのは、ちょっとうらやましいなとも思えました。
忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです。
忘れるってことは、常に新鮮な中で生きていることなのかもしれません。
それを、悲しいこと、寂しいこと、つらいことのように周りが評価してしまうことのほうが、実は一番寂しいことなのかもしれません。
きっと今頃は、母はもうすでに先ほど一緒にお寿司を食べたことも、今日が誕生日だということももちろん忘れてしまっていると思います。
そのたびに、きっと父が何度も何度も何度も今日が誕生日でお寿司屋さんに三人で行ったことを話して、また何度も何度も喜んでくれるのかもしれません。
少ししか顔を出せませんでしたが、行ってよかったなと思います。
なんまんだぶ