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聞見会

お念仏の会

言葉

言葉は言葉を打ち破るためにある

2015年3月15日 by 慈海

念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。

(要集 上 正修念仏 作願門 / 七祖聖教p930)

朝からふと、この「念仏修善」の”しゅ”がどの字だったか気になって仕方なく、さらにどこの御文かも忘れてて、あーでもないこうでもないと、モヤモヤして気持ち悪かった。

落ち着かないので、林遊さんに電話。

「上巻!作願門!」

というヒントに

「へ?大経?」

とアホなリアクションして、しまったと思ったとたんに、見えないスリッパがスパーン!

「アホか!そういう言葉が大経にあるわけないやろ!」

と電話越しに一喝された。

言葉をリンクさせて、連想するような、辞書的な知識だけだから、こうなる。

得てして、物事を知っているということは、言葉を知っていることのように勘違いしやすいけど、そんな知識は、携帯で検索すれば事足りる知識だろうなぁ。

辞書的な知識にとらわれるというのは、自らを言葉によって呪縛していくようなものかもしれない。つまり、自縛というやつだ。

「この教えは、解放していく教えやぞ」と聞かされている。

言葉が打ち破っていく、言葉の世界だ。

浄土や、往生ということを、辞書的に知って、その先の「本懐」までたどり着けず、自縛している姿は、まるで、やっと育った木の実を食べることもせずに、その華や実を眺めるだけで、腹が減った、腹が減ったと、ぼやいているようなもんかもしれん。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 往生要集, 言葉

名前を書く、名前を聞く、名前を味わう

2014年12月8日 by 慈海

月に一度、聞見会主催の仏教勉強会を、福井駅前の「スペースおいち」さんをお借りして開催している。

先月から、新しいカリキュラム「書いて・聴いて・味わう仏教講座」というのを始めた。
正信念仏偈を毎回少しづつ書いていって、それを音読し、そして味わってみようという試みだ。

仏教講座ということで、少し敷居が高いかなと思われるかも知れないが、仏語に触れて、仏語という「言葉」が開いていく世界を、一緒に味わってみようという思いで始めてみた。

そして、先月末の第1回目は、まずは「言葉」を書いて、聞いて、味わうということを、オリエンテーション的にやってみようということで、参加者の方にご自身の名前を書いていただき、そしてそれを各自自分で読み上げ、感じたことをみんなで話し合ってみた。

思いつきでやってみたことではあるが、これがなかなか面白かった。

自分の名前を、丁寧にじっくりと大きく紙に筆で書く、なんていうことは、めったにないことだ。
さらに、その自分の名前を、改まって声に出して読むということをしたことがある人は、あまりいないのではないだろうか。

名前と言うのは、「言葉」である。
自分と認識している存在に与えられた「言葉」である。

紛れも無く、その「言葉」は、自分自身を指し示しているのであって、自分自身もそのことを自覚しないままに、その「言葉」を受け入れている。

その「言葉」の背景に広がっているものというのがある。
その「言葉」は、「言葉」を超えたものを、「言葉」として具現している。

よくよく考えてみると、実は、自分自身でさえも、自分の名前という「言葉」の持つ働きについて、あまり知っていないのかもしれない。

とても新鮮な経験であった。

「人から名前を呼ばれると、嬉しい」

と、参加者のお一方がおっしゃった。

名前を呼ばれると、嬉しいというのは、どこからくる喜びだろう。

「お念仏は呼び声やぞ」と聞いた。

仏の名を呼ぶ声で、喜ぶのは、私だろうか、仏だろうか。
きっと、師にたずねれば、

「問いが間違っとる。おんなじことやろ。」

と言われそうだ。わからんけど。

 

明日12月9日の19時から、先月やったこの講座と同じことを、再度開催することになった。
告知後、早速女性の方からも参加の申し出があった。
たくさんの方に来てもらいたい、そして、一緒に「言葉」のひらく世界というのを、一緒に語ってみたいという思いがある。

ぜひ多くの方が来てくださったらと、楽しみだ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: スペースおいち, 勉強会, 書いて・聞いて・味わう仏教講座, 言葉

【勉強会@スペースおいち】「書いて聞いて味わう仏教講座(第1回)」アンコール

2014年11月29日 by 慈海

日時:12月9日(火)19時から
会費:1000円
場所:スペースおいち(福井市中央1-17-1ビッグアップルビレッジ2F)

 

聞見会では、福井駅前のギャラリー「スペースおいち」さんをおかりして、毎月第四火曜日の夜、仏教の勉強会を開催しています。

11月25日に開催した本講座「書いて聞いて味わう仏教講座(第1回)」、まずはオリエンテーションとして、ご自身のお名前を筆で和紙に書いて、そしてそれを自分で声に出して読み、自分の名前を味わう、ということをやってみました。

これが、なかなか面白いことになりましたので、ぜひもっと多くの方にも参加して、体験していただきたいと思い、再度、同じオリエンテーションを行うこととなりました。

これまでの人生で、幾度と無く書いてきた自分の名前。
あらためて、その名前の一文字一文字に集中して、丁寧に、じっくりと書く、なんてことは、実はそんなにないことかもしれません。
さらに、その自分の名前を、自分で、読んだことがある人は、あまりいないのではないでしょうか?

自分の名前に向き合うというのは、実は、自分という存在に向き合うことに繋がるのかもしれません。
さぁ、実際に、手を動かし、口を動かして、自分の名前という「言葉」に向き合ってみましょう!

もし事前に、もう少し詳しい講座の内容を知りたいという方がいらっしゃいましたら、前回使用したレジュメをご覧ください。今回もおなじレジュメで進行する予定です。

[続きを読む]

カテゴリー: お知らせ タグ: 「書いて聞いて味わう仏教講座」, スペースおいち, 勉強会, 名前, 言葉

聴聞は、響きを聴く。

2014年6月19日 by 慈海

「お聴聞ちゅうのは、響きを聞くんやろうなぁ」と、聞いた。

何を間違ったのか、私は釋慈海という法名を賜り、袈裟をかけるような者になっただけでなく、如来様の前で、御法(おみのり)をお取り次ぐことがたまにあるようになった。

「法話ちゅうのはな、教え聞かせると思うたらあかん。お前は教えの位に立つな。そんなもんは、祖師方、ご門主様方の役割や。取り次ぐちゅうことは、お前が聞かせてもらうんやろうなぁ。」

聞いた話を、「そのまま取り次ぐ」と言うのは、難しい。どうしても、自分の言葉で語りたくなる。
今の時代、自分の言葉で語るということが、良いことのように思われるかもしれないが、御法の前に、慈海というキャラクターは必要ない。

「いいお説教ちゅうのは、スーッとお前自身が消えていって、ただそこに、御法だけがあるようなお説教やろうなぁ」

個性とか、自立とか、そういう世界で生きてきたつもりの私には、なんとも奇妙で、とらえどころのない示しである。

最近、慈海は取り次ぐご法話を組み立てるときは、机に向かわない。
ボーッと頭のなかで、聞いた話を思い出して、聴いたときの響きを、頭のなかで、何度も何度も響かせてる。
お取り次ぎのご縁がうれしいのは、何度も何度もこうやって、お気に入りの御法話を、繰り返し繰り返しお聴聞できるからかもしれない。

「聴くときは、頭で聴くな、お説教のその響きを頭に鳴らしとけ」

というようなことを、深川和上はおっしゃったそうである。

「わかろうと思って聞くな。わかってこいとは、四十八願どこを探してもおっしゃってなさらん。わかったつもりが一番厄介や。わかったつもりは、自分にお悟りの世界を引き寄せてるちゅうことや。」

これを、疑い、というのかもしれない。

世間知らずの上に、御法義の勉強もままならない、頭の悪いこの慈海が、如来様の前で、如来様の本願力について取り次ぐ。
なんて思うと、とたんに緊張して何も語れなくなる。

頭のなかで響かせた、その響きが、慈海の口から、その響きが、そのまま、濁らず澱まず、こぼれていけたら。


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 法話, 言葉

「安心」ってなんや

2014年2月5日 by 慈海
安心

安心

家の中に女が独り、佇んでいる。
そんな様子が「安」という文字だそうだ。

いくら風がオンオンと吹き荒もうとも、
いくら雨がザラザラと降り荒もうとも、
屋根と壁に守られて、女は、心安く、落ち着いて、悠々とした様子だ。
外の景色とは異なった、生ぬるい空気に、心地よくまどろむ姿だろうか。
その女は、身の置き場所が決まったのだ。

心の置き場所が定まることを、「安心」するという。
不安であろうとも、不安の心のまま、置き場所が決まれば、それは安心なのだ。
不安でしかいられないその心を、安置することを、安心というのだろう。

人によって、心を安置させる場所は異なる。
それぞれが、暴れる心を落ち・着かせて、置き、定めて、
その場所に根を張るのだ。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。

(顕浄土方便化身土文類 (末))

しかし、それを「信心」というのではない。
「信心」と「安心」は別だ。
信心は、ひとつの場所に、とどまらない。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書, 言葉, 顕浄土真実教行証文類

「獨」

2014年1月5日 by 慈海

IMG

「獨」
犀角獨歩
獨生獨死獨去獨来
なんまんだぶ

平成25年の慈海のテーマは「聞」。
今年平成26年の、慈海のテーマは「獨」。
孤独の「独」。「独り」ということ。ちなみに、↑は気分で旧字で書いた。

【犀角獨歩 (さいかくどっぽ)】
古い経典といわれる『スッタニパータ』の中に、この言葉は出てくる。
『スッタニパータ』とは、釈尊の言葉を、詩編として残されたもの。
”犀角”というのは、つまり、犀(サイ)の角(ツノ)。
“獨歩”というのは、つまり、独り歩めということ。
「犀の角のように、ただ独り歩め」
そのように、40篇にもわたって、繰り返されている。
あえてここでは紹介しないが、興味がある方は、
[ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)]
をご覧になってみると、面白いと思う。

【獨生獨死獨去獨来 (どくしょうどくしどっこどくらい)】
仏説無量寿経巻下の、三毒段といわれる個所にある言葉。
この言葉が出てくるか所を読み下しするならば、下記の通り。

人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。善悪変化して、殃福処を異にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬればよく見るものなし。
(仏説無量寿経 巻下 三毒段)

ちなみに、「孤独」という言葉。
手元の漢和辞典(新字源)によると、
「孤」は、みなしご(孤児)の意味らしい。
「独(獨)」は、身寄りがないという意味らしい。

浄土真宗は、在家仏教といわれる。
”世間愛欲”の中にあるこの身を悲嘆しつつ、仏の方に心の向きを定められないこの身を慙愧しつつ、それでも、いや、だからこそ、この身にはたらく如来の大悲に縋り、報ずることも、謝することも知らない愚かさに、智慧の光が照らされているということを、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ との、このお念仏に、聞かされ、生死を超えていく道ではなかったか。

御開山聖人の、悲嘆述懐和讃を、寂しいくて暗いという人もいるけれど、
本当の独りになれるということは、そこに、光が照らしているからであろう。
あれは、とても明るい和讃だと、慈海は聞いた。

「獨(独)」ということばは、何とも、寂しくて、明るい言葉であろうか。
そのことを、この一年、じっくりと、深められるようにしたい。

そんな思いで、今年の書初めは、「獨」と書いた。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: スッタニバータ, 仏説無量寿経, 書, 書初め, 犀角独歩, 言葉

モノ・コト

2014年1月5日 by 慈海

モノコト

「物事(ものごと)」は、「物(モノ)」と「事(コト)」

「物(モノ)」は、手に取って、もしくは手に触れて、あるいは、目に見えて、それを知ることができる。
「事(コト)」は、手に取ることも、触れることも、目に見えて知ることは無いけれども、確かにあった。

それら二つを合わせて、「物事」と表現するこの言葉を最初に使った方のセンスには脱帽だ。
やっぱり言葉って面白い。

生きるというのは、この「物(モノ)」と「事(コト)」にさらされ続けるということだ。
色んな物事の中に、慈海はいる。

そしてまた、それら「物(モノ)」と「事(コト)」によって、慈海はつくられる。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

元照律師の釈七文を、ご開山は引文された箇所。

「名をもつて物を接したまふ」
なんまんだぶ という、名を持って、この慈海というモノを、摂取されるという。
まぁ、ここで仰る物というのは、「者」という意味であろうが。

しかしこれは、事件だ。
大事件である。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 元照律師, 書, 言葉, 顕浄土真実教行証文類

阿呆堕落偈(あほだらけ)

2014年1月2日 by 慈海

阿呆

 

《あ》 阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。
*阿呆堕落偈(あほだらけ)前川 五郎松 著

世間には、「賢くなる」勉強があふれている。
「賢くなる」というのは、「言葉」を知っていくことであろう。
より多くの言葉を知り、その言葉の使い方を身に着け、言葉を自在に使いこなせるようになることが、「賢くなる」ということだ。

「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だけではない。
意思疎通する際にのみ、この「言葉」が必要なのではない。

人は、モノ・コトを考えるとき、自分の頭の中でも「言葉」を羅列させる。
逆に言えば、「言葉」があるからこそ、人はモノ・コトを考えることができる。
考えるということは、その対象となるモノ・コトを認知するということでもあるだろう。

より多くの「言葉」を知り、その「言葉」の意味を知り、その「言葉」の使い方を身に着け、それをコミュニケーションはもとより、自己の思考を深めることが、世間では「賢くなる」ということではないだろうか。

しかし、この「言葉」という道具を使っているつもりが、逆にこの「言葉」に使われてしまっているということがある。

人は、知性を手に入れた。
それは、この「知性」に支配されたということかもしれない。

『この世には、阿呆になる勉強があるのかもしれんなぁ』
そう、慈海は聞いた。

賢くなる勉強はあまたあふれている。
賢くなることは、強くなることかもしれない。
賢くなることは、生き抜く術かもしれない。

しかし、「賢くなる」ことにかまけて、この「言葉」にならない「思い」を、置いてけぼりにしてしまうことは無いだろうか。

『賢くなる勉強はようけあるけどなぁ、阿呆になる勉強ほど、難しいことは無いかもしれんなぁ』
『お前はな、小阿呆になるなよ。どうせ阿呆になるんなら、大阿呆にならんとなぁ』

阿呆を装うことも、また「賢さ」である。

本物の阿呆になる道は、険しい。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 前川五郎松, 書, 言葉, 阿呆堕落偈

聞見会新聞【第2号】

2013年10月9日 by 慈海

聞見会新聞第二号 [続きを読む]

カテゴリー: 聞見会新聞 タグ: コンビニ坊主, 慈海, 法話, 聞見会新聞, 言葉

「口耳四寸」

2013年10月9日 by 慈海

「口耳四寸(こうじしすん)の学(がく)」という言葉がある。デジタル大辞泉によれば

《「荀子」勧学から。口と耳との間でする学問の意》聞いたことをそのまま人に伝えるだけの、身につかない学問。受け売りの学問。

ということらしい。(コトバンク>「口耳四寸の学」より)

上記の通り、耳に入ってきた言葉を、全く自分というフィルターを通さず、疑問や考えなしに耳から四寸下の口からそのままアウトプットすることを言うようだ。一般的にはあまり良い意味では使われない。

ところで、仏教の経典の殆どは「如是我聞(にょぜがもん)」 もしくは「我聞如是(がもんにょぜ)」という言葉から始まる。
これは、仏教の経典というのは釈尊の著作ではなく、釈尊が涅槃に入った後、釈尊のお弟子さんである阿難尊者(あなんそんじゃ)が「私はこのように(お釈迦様のお話を)聞きました」と書き残したためという。いわば、仏教の経典に書かれていることは、口耳四寸の教えであろう。もし、佛の言に、聞いた人の領解の言葉が含まれてしまったり、もしくはその領解にあわせて言葉が抜き取られてしまっていたら、それは仏語では無い。禅宗では教えを師から弟子に受け継いでいくことを、コップに注がれた水をそのまま空のコップに注いでいくように、教えを伝えていくらしい。仏教は聞いた教えをそのまま伝えていく。まさに口耳四寸の学であるからこそ、ありがたいのかもしれない。

とはいえ、親鸞聖人の教行証文類を開くと、引文してきた漢文を(おそらくあえて)読み変えされていて「よくこんな読み変え出来るなぁ。」と、オソロシイ引文の仕方をされていたりするのであるが、これは言葉そのものではなく、言葉の表しているところをみているからこそできることなのかもしれない。また、大乗非仏説とかいうことを主張されてる方もいるが、そのへんのことについては、別の機会にまとめよう。

ここ数日ブログをどうしようかといろいろ考えていた。自分の学んだこと、聞いた話を受けて、それに自分の領解や味わいを付加し、面白く、わかりやすく、お念仏の教えをシェアしたい、と思いながらも、いざ文章を書き始めると、言葉の壁の前にウロウロとして結局放り出してしまう。(事実下書きにたくさん書きかけの記事があるけど、とても公開できるほどの記事になってない)

師には常日頃「言葉を超えたところの話を、あえて言葉にして伝えてくださっている教えだからこそ、お念仏の教えというのは、言葉に厳しくなければいかん。」と示していただいている。だからこそ、いざ聞いた話を元に記事を書こうとしても、自分の言語能力に疑問を感じ、言葉を発することが怖くなってしまう。言葉はオソロシイ。

であれば「如是我聞」私も同じように、聞いた話をそのまま受け売りでシェアするしか無いなと、ブログのタイトルを「口耳四寸記(こうじしすんき)」として、言葉を残していくことにした。実は、この口耳四寸の学というのは、これはこれで難しい。聞いた話を聞いたままに伝えていくことは、自分の意見を廃し、自分の余計な領解がふくまれることで、正しく言葉が伝わらないことがあるかもしれないからだ。自己の承認欲求が先に立つと、この口耳四寸の学というのは難しい。もともと他人の言を自分の言葉のように受け売りすることも承認欲求のはけ口的なことかもしれないが、本当の受け売りというのは、承認欲求を廃したところにあるのかもしれない。

さて、この「口耳四寸」という言葉、お念仏にも深く関係がある。
法然聖人のご消息や問答をまとめた「拾遺黒谷語灯録」というのがあるがその中に、
「(お念仏の声は)我が耳に聞こゆる程に」と言う言葉がある。(参照)*
お念仏のする時の声は、大きければいいのか、それとも小さいほうがいいのか?と、慈海にもたまに質問される時があるが、この法然聖人の言葉を受けて、慈海は「お念仏は仏さまの呼び声。その呼び声が自分の耳に聞こえるほどで良いのでは」とお話している。
我が口から飛び出て来なさった仏さまが、四寸上の我が耳に届くほどに、お念仏されればよろしいのでしょう。

「口耳四寸」私の耳に入ってきた仏の教えが、私の口からそのまま出ていくように。
そして、私の口から出てきた佛が、そのまま私の耳に届く程に。

合掌 なんまんだぶ

*「拾遺黒谷語灯録」下記箇所について詳細別記事で後日更に深める予定

三業とは、身と口と意とを申候也。しかも仏の本願の称名なるかゆへに、声を本体とはおほしめすへきにて候。さてわかみみにきこゆる程に申候は、高声念仏のうちにて候なり。高声は大仏をおかみ、念ずるは仏のかずへ[40]もなど申げに候。いつれも往生の業にて候へく候。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: お釈迦様, 三業, 仏教, 拾遺黒谷語灯録, 法然聖人, 経典, 荀子, 親鸞聖人, 言葉, 顕浄土真実教行証文類
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