なんなんやこれはということを、知りたくて

母方の祖父がお浄土に参られてから三十年以上経つ。その祖父が生前ポツリと話したことなどを、今時々耳にする。その一言にハッとさせられる。よく法を聞いてこられた祖父のその一言が、数十年の時間を超えて、慈海にお浄土に手を合わさせしめ、お念仏を申させしめる。

なんなんやこれは。

この、なんなんやこれはということを、知りたくて慈海は真似のお念仏をしているのかもしれない。

なんまんだぶ

どうせ誰も見てないし

「どうせ誰も見てないし、福井でちゃんと晨朝勤行やったし、別にやんなくてもいいんじゃね?汗ばんでる時にまた着替えるの面倒じゃん?準備だってしなきゃだし、かったるいし、お勤めしないと地獄堕ちるとかじゃないしさぁ。」

といつも福井から吉崎に帰ってきた朝はふと思ってしまうのです。思うのですけどカギを開ける時になって如来様も御開山聖人も蓮如さんもそれに肯定もせず否定もせず、黙っていらっしゃるので、なんか後ろめたい気持ちになって、後ろめたいってことは、やった方がいいじゃん、っていうかやんないと後ろめたいまんまじゃんって思うので、渋々着替えて、渋々準備して、二度目の晨朝勤行をお勤めするのです。

だからといって、やっぱり如来様も御開山聖人も祖師方も、蓮如さんも褒めてくれるわけでもないし、誰かに見られて「あらぁ偉いわねぇ」と思われるわけでもないのですけど、終わった後は後ろめたい気持ちよりも誇らしい気持ちになるので、少し気分がよくなるのです。

朝晩のお勤めをするような日暮らしになって数年経ってもまだまだ「日常の勤行」にできていないなぁと、今朝の先ほどの吉崎のお勤め中にもそんなことを思えて、情けないなぁと思うのですが、ご文章を拝読する前になって外からたくさんの鳥たちがとてもとても賑やかに囀る声が聞こえてきて、それが「やった、今朝はお休みかと思った!今日も聞けた!今日も聞かせてもろた!」とよろこんでるようにも聞こえて、せめてあの鳥たちくらいに自然に毎日の日常の務めができるようになりたいなぁと思うのでした。

誰のためにするお勤めでもない、自分のためのお勤めだと立派なことを言われたりすることもありますけど、報恩行というのは、だれのためでもなければ、同じく自分のためでもないんだろうなぁ。「~の為」というのじゃない、というのがありがたいことなんだろうと思うのでした。

なんまんだぶ

「あぁ、慣れたと思っていたのか」

先日お取次したご法話の録音を聞き返していて、途中とても辛くなって一旦停止ボタンを押した。

何を辛く感じたのかがわからなくて、腕組みをしてしばらく天井を眺めていた。

自分の拙い喋り口に恥ずかしさを感じるときもあるし、ついつい拙い知識をさも自分の手柄のように話そうとしている自分(教位に立とうとしている自分)に気づいて殴り倒したくなる時もあるけど、辛くなって聞くのをやめることというのは、久しぶりのことであった。

ぼんやりとお取り次ぎの時の様子を思い返し、これまで聞かされてきた話を交互に思い返ししながら、「あぁ、慣れたと思っていたのか」と気づいて、愕然とした気持ちになった。

お取り次ぎの内容がとか、喋り口がとか、話しているときの心構え云々とかそういうことではなくて、「辛い」と感じるようになったことが問題であった。

わかりやすく言うと、どこかで慈海は「こういう者でありたい」と思う理想を演じることに慣れてきてしまっているのかもしれない。

上手な坊主なんてくそくらえと息巻いていながら、上手に坊主を演じることが板についてきていると、自分で思い込みながら、それに違和感どころか心地よさまで感じるようになっているのだろう。

綺麗な言葉を使うのに慣れて、美しい念仏者などという、文字にしても汚らしくてしかたなのない、そんなものにでもなろうとしていたのだろうか。

お御法(おみのり)は、この煩悩を自ら慰め、美化し、守るための飾りでも衣装でもないのになぁ。

上手な坊主にも、下手な坊主にも成りきれない上に、上手に世を渡ることも、下手に世を棄てることさえもできない慈海は、一体どこにいるんだろうか。

なんまんだぶ

お同行というのは、言葉は一つもいらない。

遠方から月に一度ほど、泊りがけでお参りに来られる方がいらっしゃる。

雨が上がったころ、今日もふらりといらっしゃった。

いつもは正信偈のお勤めなどを一人ひっそりとされて行かれるのだけど、先ほど用事で本堂に上がったら、先日差し上げた御文章の本を拝読されていた。

拝読の合間合間に「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ …」とお念仏をされる声が、お御堂の畳にじんわりとしみこんでいかれるようであった。

これまでも、ふと見かけると泣きそうな声でお念仏をされているときもあれば、弾むようにお勤めをされていらっしゃるときもある。今日は、とても静かな気持ちでお念仏をよろこばれているご様子であった

あぁ、慈海もそうだったなぁと、とくに挨拶だけで言葉を交わすこともなかったけれども、お同行と深く深く話し合えたような気持になって、うれしい気持ちになって、音をたてないようにそっとその場を離れた。

お同行というのは、言葉は一つもいらない。お念仏の声一つで、会ったこともない、直接会うこともかなわないような同じお念仏の道を歩むかたと、よろこびあえるのかもしれない。

なもあみだぶ

人知れず戦っていました

ここ数日、朝の掃除中に天井裏の隙間からパラパラと土埃が落ちてくるのです。

「ほう、やる気かね?」

そのたびに天井裏を仰ぎ、微かな気配に向かって慈海はつぶやくのでした。

ここ数日の雨風で汚れが目立つので、今朝はお御堂回りの通路を念入りに雑巾がけをしました。汗だくになって、よーしおあさじの準備をしようとしたところで足の裏にジャリっと不快な感触がありました。

「なるほど。少しも遠慮はないってことだね? よろしいならば戦争だ。」

今日一日、お御堂に行くたびに、天井裏に向かって宣戦布告を繰り返す慈海。出ていくなら今のうちです。慈海はちゃんと申し送りをいたしました。なんどもなんども涙をのみながら出ていくように諭して歩きました。

夜も更け、風も止み、お御堂の明かりを消すと、わずかな外灯の明かりをのこして、境内は闇に包まれました。

時は来ました。

先日購入してあった”獣除け線香”を携え、お御堂に向かいます。出入り口になっているであろう天井裏の隙間を狙い、線香に火を灯し、目の痛くなる煙にむせながらひとつ、またひとつと設置していきました。

事前に通告していたからでしょうか、天井裏からは何の気配も感じません。いつにもましてシンとしたお御堂に、少し寂しさを感じます。

5時間もすると線香も燃え尽きるでしょう。そしてお御堂の天井裏はカプサイシンの刺激臭で充満しているはずです。明日の朝、お御堂を開けたとき、そこにどんな景色が広がっているでしょうか。

土埃は落ちているでしょうか。ガタガタと天井裏のねぐらに帰っていく足音を聞くこともないでしょうか。

なんまんだぶ

ウスの役はやっぱり慈海ですか?

赤手ガニをちらほらと見かける時期になってきました。

そして、最近タヌキの気配がないなぁと思っていたら、職員さんが先日サルっぽい気配があったとのこと。もしかすると本堂の屋根裏にサルが出入りしているのかもしれません。

これは、もしや、あの伝説の「さるカニ合戦」開戦の兆し!?

ウスの役はやっぱり慈海ですか?そうですか。

ちなみに、吉崎の赤手ガニは木に登ります。
…ん?だめじゃん!合戦始まらないじゃん!

なんまんだぶ

やっぱり、もしかすると、ほんとうに、夢を見ているのかもしれません。

ツツジの時期が終わったので、念力門前の松とツツジを剪定しました。

ここで作業しているといろんな方から声をかけられます。

まだ途中だけどそろそろ今日は終いにしようかと片付けていたら、「まだお参りできますか?」と、見たところ齢九十を越えていそうなご夫婦に声をかけられました。

「どうぞどうぞ。まだ開けておりますよ。ごゆっくりお参りください。」とお返事すると、旦那様のほうは杖を付きながら階段を一段一段足が地についているのを確認するようにゆっくりゆっくりと登って行かれました。

お帰りのとき、もしかすると手を必要とされるかなと思い、もう少し作業を続けながら戻られるのを待っていました。

三十分ほどするとカツン…カツン…と杖の音を鳴らしながらご夫婦が戻られてきました。

「お昼に目が覚めて、ちょっと出掛けようかと来てみたんです。」静かにそうおっしゃって、じっと本堂の方を眺めていらっしゃいます。

「ゆっくりあみださまとお話しできましたか?」

「ええ。また来れるかわかりませんしねぇ」

ありがとうございましたと去っていかれたご夫婦に手を合わせて見送り、片付けを再開しながら、なんだか今、夢を見ているような気持ちになったので、「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ」と少し大きく声を出すと、御山の方からウグイスが盛んに鳴き始めました。

やっぱり、もしかすると、ほんとうに、夢を見ているのかもしれません。

なんまんだぶ

電話越しの晨朝勤行というのもなんとなく慣れてきて

なかなかバタバタ落ち着かず、落ち着いた日常を過ごせずにいますけれども、忙しいのではなくて、なんとなく気ぜわしいのでした。

それでも、晨朝勤行のときはゆっくり仏様の前に座っていられるので、「日常の勤行」ということを定めてくださった蓮如上人には、かたじけないばかりなのです。

電話越しの晨朝勤行というのもなんとなく慣れてきて、まるでそこにいらっしゃるかのような気持ちで、以前実際にそこにいらっしゃったときと同じように、お勤めをしています。

電話の向こうのその方も、電話越しに聞こえるお勤めの声はもちろんのこと、かすかに聞こえる足音や、衣擦れの音からも、私の様子が手に取るようにわかりますとのことで、「慈海はこれまで通り気を抜くことできませんね」と、笑いあったことでありました。

先日、電話越しにお若い声がかすかに聞こえました。お勤めの後電話の向こうにそのことをたずねると、小学校低学年のお孫さんが泊まりに来ていたそうです。「おばあちゃんなにしてるんだろ?」と、一緒にお仏壇の前に座り、仏様に手を合わせ、おばあちゃんと一緒に、携帯越しの慈海の声を聞きながら、お勤めをされていらっしゃったとのことでありました。

電話越しに声をかけると、恥ずかしそうに挨拶をしてくれるかわいい声と、嬉しそうにお孫さんを紹介してくださるおばさんの声が、朝からお御堂の空気を柔らかくしてくれました。

お勤めが終わればまた気ぜわしい日常が始まるのです。あれやこれやあれやこれやとばたばたとしながら、食うて寝て食うて寝てを繰り返すばかりであるけれども、それもまた、手を合わせる間のモノゴトなのでありました。

なんまんだぶ

名前が分かったら、鳴き声も違って聞こえて、より一層楽しく聞こえるのかもなぁ

吉崎は、海に面した山の湖畔なので、とにかく自然が豊かで、たくさんの生き物が暮らしています。

今日のような気持ちよく晴れた朝には、鳥たちがとても賑やかで、境内の木々の枝を揺らしたり、追いかけっこしたり、時には喧嘩をしたりしながら、様々な鳴き声を聞かせてくれます。

慈海は鳥の種類に詳しくないので、「このさえずりは何の鳥だろう?」「あの枝にとまっている綺麗な鳥はなんて言うんだろう?」と思いながら、このサイトを開いて調べてみるのですけど、まぁ、こういうの調べるの苦手なので、結局いつもわかんないんですよね。

https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/

名前が分かったら、鳴き声も違って聞こえて、より一層楽しく聞こえるのかもなぁなんて思いますが、名前も知らない鳥たちと、一緒に晨朝勤行をお勤めしているのもうれしい朝の楽しみでもあります。

なんまんだぶ

人に仏法のことを申してよろこばれば…

午前中、急きょ代理で依頼いただいた施設でのご法話にうかがっていました。

お取次ぎが終わり、ご文章を拝読して会場を出る際に、合掌礼拝した際、頭を下げている慈海に向かって涙声で

「ごえんさんありがとうございます ありがとうございます なんまんだぶ ごえんさんありがとう ありがとう…」

とおっしゃるのが聞こえてきました。

慈海の目頭にも熱いものがこみ上げてきて、頭を上げることができず、礼拝したまま震え声でこちらも「ありがとうございます ありがとうございます なんまんだぶ なんまんだぶ ありがとうございます…」と繰り返していました。

職員さん方もいらっしゃるし、なんだか恥ずかしくなって、そそくさとその場を立ち去ろうとすると、施設から出るとき、聞いてらした方々が皆さんこちらを向いて手を合わせていらっしゃいます。

深々と再び礼拝して後ずさるようにその場を離れました。

「人に仏法のことを申してよろこばれば、われはそのよろこぶ人よりもなほたふとく思ふべきなり。仏智をつたへまうすによりて、かやうに存ぜられ候ふことと思ひて、仏智の御方をありがたく存ぜらるべしとの義に候ふ。」(蓮如上人御一代記聞書 )http://labo.wikidharma.org/…/%E8%93%AE%E5%A6%82%E4%B8%8A%E4…

との蓮如上人の仰せが帰りの車の中で何度も思い起こされて、なおさらかたじけない気持ちになりました。

なんまんだぶ