灯台もとくらし

福井別院から吉崎別院に帰って、急いで支度して今日二度目の晨朝勤行。

慈海は基本的に本願寺吉崎別院で寝泊まりしているけれども、週末には福井別院での日直と宿直も請け負っているので、毎週日曜か月曜の朝は福井別院で晨朝勤行をお勤めしている。そのあと急いで吉崎に帰って、もう一度吉崎別院で晨朝勤行をお勤めするのだけど、一座経や来客の予定が入っていたり、業務の関係でできないことも多い。

だけど、今日はきちんと吉崎でもお勤めできた。気分がいい。

お勤めの前に、いつも電話でご一緒してくださる方に「今からお勤めしますけど、ご一緒しますか?」と連絡すると、快くお付き合いくださった。いつもできるかどうかわからないけどとお伝えしてはいるけれども、突然電話してもいつも快くお付き合いくださる。ありがたい。

通常は吉崎での晨朝勤行を7時から始めているので、朝早い時間ということもあってお御堂に入ってこられる方はほとんどない。けれども、今朝のように遅い時間から始めると、たまにお勤めの声に誘われてお御堂に入ってこられる方がいらっしゃる。

今朝のお勤め中にも、団体で入ってこられた方がいらっしゃった。本堂でのお勤めの後、中宗堂でもお勤めしますよとお誘いすると、ぞろぞろとついてこられて中宗堂でもご一緒にお勤めお付き合いくださった。

最後に蓮如上人オカタミの御影の前でご文章を拝読したあと、少しお話をするとお参りされていらっしゃったお若い方が「すごい!すごい!」とよろこんでいらっしゃる。日常のなかで、こうやって大きなお荘厳の前で、大きな声でお勤めしているところを目の当たりにするなんてことはまずないだろうし、ご文章をこうやってお聴聞されることもなかなかないと思う。慈海にとっては日常のことになってしまったけど、よくよく考えれば、これって非日常なことだったよなぁ。これは「すごい!」と毎日毎回自分がまず驚かにゃぁならんことでした。

それを、メンドクサイとか、暑いとか寒いとか足しびれるとかなんだかんだと、毎回ふと思ってしまうことがある自分って、いったい何様なんだろう。困ったもんだ。本当に困ったもんだ。

お勤めのあと、片づけていると蓮如上人が静かにおっしゃる。

とほきはちかき道理、ちかきはとほき道理あり。灯台もとくらしとて、仏法を不断聴聞申す身は、御用を厚くかうぶりて、いつものことと思ひ、法義におろそかなり。とほく候ふ人は、仏法をききたく大切にもとむるこころありけり。仏法は大切にもとむるよりきくものなり。

(遠いものがかえって近く、近いものがかえって遠いという道理がある。「灯台もと暗し」というように、いつでも仏法を聴聞することができる人は、尊いご縁をいただきながら、それをいつものことと思い、ご法義をおろそかにしてしまう。反対に、遠く離れていてなかなか仏法を聴聞することができない人は、仏法を聞きたいと思って、真剣に求める心があるものである。仏法は、真剣に求める心で聞くものである。)

>> 『蓮如上人御一代記聞書』

そしてまた、こうも仰る。

ひとつことを聞きて、いつもめづらしく初めたるやうに信のうへにはあるべきなり。ただ珍しきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。

(信心をいただいた上は、同じみ教えを聴聞しても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように思うべきである。人はとかく目新しいことを聞きたいと思うものであるが、同じみ教えを何度聞いても、いつも目新しくはじめて耳にするかのように受け取らなければならない。)

>> 『蓮如上人御一代記聞書』

なんとも、なんとも、かたじけない。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

学習能力が無い

ハサミって、なんでいつもどっか行っちゃうんでしょう。ちょっと使いたくて、机の引き出しを開けると、たいていそこにはありません。どこに片付けたっけ?と、あちこち探すのですが結局見つからなくって、渋々新しいのを買いなおした後に、何度も何度も確認したはずの引き出しの中にあるのを見つけたりして、がっくりとうなだれます。なんなんですかね。ほんとに足でも生えてるんやないでしょうか。

ハサミに限らず、私はいろんなものをしょっちゅう無くします。財布であったり、携帯であったり、車のカギであったり、ハンコであったり……。借りた本とかDVDなんて、見当たらなくなった時にはとても焦ります。さらには、仏さまからお借りしている大切なお念珠や輪袈裟が見当たらなくて大いに慌てたことも何度かあります。

そして、ちゃんといつも身辺をきれいに整えていればこんなことにならないのにと、毎回後悔します。深く深く後悔します。そして数日後には「あれ?どこやったっけ?」とまた慌ててあちこちウロウロ、ガサガサ、ドタバタとし始めます。困ったものです。本当に困ったものです。私って、ほんと、学習能力が無いんでしょうか。

私の母もよくものを無くします。認知症の症状が進んで、近頃は一日の大半は何かを探しています。「私もうアカンわ」と嘆きながらウロウロ、ガサガサ、ドタバタと探し続けます。そのうち何を探しているのかも忘れてしまって、それでもその忘れてしまった「何か」を探し続けます。

「あらぁ?私今何探してるんやったっけの?」
そんなことを言いながら、”何を探しているのかを探す”ためにかばんをひっくり返し、布団をひっくり返し、タンスをひっくり返し……、仏間と台所と寝室とを何度も何度も行ったり来たりして、また「私もうアカンわ」と言い続けます。

そして、やっと探し物(探していたはずの物)が見つかると、ホッとした顔をして「あぁよかった。あぁーよかったぁ!」とよろこびます。安心した顔をします。安心するのですが、しばらくするとまた別のものを探し始めています。

そんな母の様子が、なんだか常に自分から「不安」を探しに行っているように思えて、不安を探している状態がある意味「安心」なのかなと思う時もあります。いや、本人にそんなことを言ったら怒られるかもしれませんし、不安であること自体は本当なのでしょうけど。でも、それって、私もまた同じかもしれません。

「良い人」に見られる自分を探して、「仕事のできる人」「賢い人」「思慮深い人」「誠実な人」「真面目な人」「信心深い人」……と思われる自分を探して、かばんをひっくり返し、布団をひっくり返し、タンスをひっくり返し……、仏さまのところに行ってみたり、日常生活の中の身振り手振りを見直してみたり、言葉遣いに気を付けてみたり、心構えを強く持ってみたりしながら、ずっとずっと「人から見られる自分」を「本当の自分」のように思い込んで、ウロウロ、ガサガサ、ドタバタとし続けているようにも思えます。

そして、仮の「信心」と自ら名付けた拠り所のようなものを見つけたと思っても、すぐにまたその「信心」とやらを雑に放り出して別の「心の拠り所」を探している姿を「無明」というのでしょうか。

そんな自分を、私は「あさましい」と思い、そんなあさましい私を仏さまは「凡夫」とお呼びくださる。私の名前は「凡夫」だそうです。名付け親は如来様です。その、いつまでたってもこのままではいられない凡夫に、不安をつかんでいなければ落ち着くことのできない私に、如来様は「なんまんだぶ」と聞こえてくださる、そうです。

よー知らんけど。

なんまんだぶ

そしてまたご一緒に

祥月のお参り中、いつもふらっとやってくる近所の酔っ払いのおっさんが入ってこられました。けど、お勤め中とわかるとさすがにお御堂の外に出てチンとしておとなしく待ってらっしゃいました。
お参りが終わって、ご参拝の方が帰るとき「おれお東やけどこいつ好きやねん」って話しかけられてて、ツンデレか。参拝の方も苦笑い。
で、正装している慈海の格好を見てか、なんだかかしこまって「入って…いいけ?」とかわいらしい。いつもの「おーーーい!にゅうどぉおおおお!!」のテンションはどうした。
「なんや、蓮如さまの前で手も合わさんと。ちゃんと座ってご挨拶せんかい」
「お、おぅ」
帽子を脱いで正座して神妙な顔つきです。
なまんだーぶなまんだーぶなまんだーぶ
二人で大声でお念仏。振り返って
「おうおう、おっさん、酒臭い匂いさせてやんちゃばっかやってなぁ、でもよかったなぁよう仏さんにあわせてもろたなぁって、蓮如さんおっしゃってるかもね」
と言うと途端に表情を崩される。そしてまたご一緒にお念仏。
今日もバタバタしてゆっくりお話はできなかったけど、満足そうに帰っていかれる後姿にまた合掌してお見送りする。
蓮如さま、今日は吉崎賑やかですねぇ。
なんまんだぶ

だからねぇ……

今から三十年ほど前、行信教校OBの方々が、吉崎別院で泊まり込みの勉強会を開いていらっしゃったそうです。
そのとき、梯和上が講師となられていらっしゃったそうで、和上がお忙しくなられた後は天岸先生がいらっしゃっていたそうです。
その話は聞いたことがあったのですが、今日改めて当時の話を聞かせていただいて、梯和上もここにお泊りになられていたと聞きました。
「だからねぇ、みぃんな一生懸命生きてるんですよ。あーでもないこーでもない言いながら、必死にねぇ生きてるんですよね。」
そんな話を、ここで夜通しお話しされていらっしゃったのでしょうか。この部屋で、この布団にくるまって、後生のお話をあーでもないこーでもない言いながらされていらっしゃったのでしょうか。
数年前、熱を出して寝込んでいた時に、すでに往生されていらっしゃった和上が出てこられたことがありました。
多くの方に囲まれていらっしゃった和上が、講堂に入られる前、私の前を通り過ぎるときに、私の方に振り返って
「あんた、本当に死にきることができますかいな?」
と、目じりの下がった優しい笑顔でそう声をかけてくださいました。
和上にお会いしたのは1度しかありませんが、東京にいた時から何度も何度も何度も和上がお取次ぎくださったたった数話のご法話の録音を携帯に入れて聞いています。何百回…は大げさかもしれませんが、本当に何度も何度も同じお取次ぎを聞いています。
何度聞いても、聞くたびに聞こえるところが違って、何度聞いてもお念仏がこぼれます。
あの声の主が泊まられた場所に、今住んでいるのかと思うと、なんだか不思議な気分になります。
あぁ、きっとおあさじの時にはいつもご一緒にお御堂にいらっしゃるのかもしれない。当時まだお若かった先生方と一緒に、毎朝おあさじお勤めさせてくださっているのかもしれないなぁとか思うと、胸がちょっときゅぅとなります。
なんまんだぶ

忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

今日は母の誕生日。
ちょっとやりたいことがたくさんあるし、どうせ顔を見せても忘れちゃうし、電話だけにしようと思ったけど、あと何回母の誕生日に一緒に食事できるかわからないしなと思いなおして、実家に行ってきました。
外食をすることになり、それならお客さんが少ない時間がいいだろうとお昼時を避けてお寿司屋さんへ。
人目があると躁状態になって、ほかのお客さんや店員さんに迷惑をかけてしまったり、トラブルになることもあるので、外食するときにはいつも空いている時間を狙って行くようになりました。
せっかくの誕生日だから、母が好きそうな少しお高いお寿司を頼んだりしていると、母は「こんなもったいない。あんた食べね」と私や父に食べさせようとします。
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
「今日?えっと、ちょっと待って」
そういって携帯を取り出し
「あらぁ?今日6月6日かぁ?あらぁ!」
「ほやぁ(そうだね)、6月6日は何の日やの?」
「うふふ。。。私の日やのぉ!あらぁ!」
「だから、これ(豪華なお寿司)はお母さんのやざぁ。食べねの」
「あらぁ…ありがとう。うれしいんや!」
そういって嬉しそうに一口食べると
「なんかこんな豪華なの悪いんや。あんた食べねの?」
とまた私に食べさせようとします。
そのたびに
「おかあさん、今日何日かわかるか?」
と先ほどの会話のふりだしに戻っていきます。
今日一日で、何度今日が母の誕生日だと教えたでしょうか。そして、今日一日で、何度母は自分の誕生日だと知って喜んだでしょうか。
何度も、何度も、何度も、何度も、何度も忘れて、
何度も、何度も、何度も、何度も、よろこんでいました。
一年に一度しかない誕生日で、これだけ何度もそれを喜べるのは、ちょっとうらやましいなとも思えました。
忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです。
忘れるってことは、常に新鮮な中で生きていることなのかもしれません。
それを、悲しいこと、寂しいこと、つらいことのように周りが評価してしまうことのほうが、実は一番寂しいことなのかもしれません。
きっと今頃は、母はもうすでに先ほど一緒にお寿司を食べたことも、今日が誕生日だということももちろん忘れてしまっていると思います。
そのたびに、きっと父が何度も何度も何度も今日が誕生日でお寿司屋さんに三人で行ったことを話して、また何度も何度も喜んでくれるのかもしれません。
少ししか顔を出せませんでしたが、行ってよかったなと思います。
なんまんだぶ

それでも、そのままに照らされていると聞かされることは

おあさじの時に、お荘厳がまぶしく輝くときがあります。

太陽の角度とお天気の影響でしょうが、それでもなんとも美しくて、かたじけなくもったいない気持ちになります。

昨日は衣替えでした。

季節が変わり気温が変わると着ている装いを変えていかなければなりません。春が来れば春服に、夏が来れば夏服に、秋が来れば秋服に、冬が来れば冬服に。

環境に合わせて装いを変えるのは、着ているものだけじゃありません。TPOとかいいますけど、状況に合わせて世間に合わせて、私というものはその都度言葉やふるまいといった装いを変えていかざるを得ないものです。

周りの目を見て、空気を読んで、その時その状況に合わせて生きているのが私です。

あ、ちなみに、周りに流されない自分というのも、周りに流されない自分っていうのがカッコいいという世間の風潮に合わせた姿っすからね。

そんな私自身が、「本当の私」とかいう幻想に追い回されてふらふらしたままに、照らされている世界があります。

それは、聞いた話でしょうか。聞かされた話でしょうか。

それでも、そのままに照らされていると聞かされることは、なんともかたじけなくてもったいない気持ちになります。

なんまんだぶ

門の方に向かって少し手を合わせ

外掃除をしていると、年配のご夫婦がお参りに入ってこられました。

「ようこそのお参りです。どちらからいらっしゃったんですか?」

いつものように声をおかけすると、大阪からいらっしゃったとのことでした。親戚が近くにあるので、来たついでにお参りに来られたそうです。

「それはそれは!ようこそようこそ。せっかくなので、お土産に私の好きな歌をお聞かせしてもよろしいですか?」

そういって、

“引く足も称える口も拝む手も弥陀願力の不思議なりけり”

の歌をご紹介し、少しその歌の心についてお話しすると

「三年前にもお御堂でお話ししてくださいましたね」

とおっしゃるのです。

「えぇ!それならそうおっしゃってくださればいいのに!」

「いえいえ、せっかくだからもう一度聞こうと思って」

そんな感じで15分ばかり境内で仏さまのお話やら世間話をして「ぜひまた来てくださいね」「また来ますね」とご挨拶しながらお帰りになって行かれました。

お帰りになられた後、三年も前のこと、憶えていてくださったんだとちょっとうれしくなって、門の方に向かって少し手を合わせて、お念仏していると、本堂前に住み着いているモリアオガエルが「ぐわぁ ぐわぁ」と一緒にお念仏してくださいました。

なんまんだぶ

晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って

「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」

晨朝勤行のあと、誰もいないお御堂に座って、ぼんやりと阿弥陀様を眺めているのが好きです。

ぶつぶつお念仏をつぶやくと、お御堂に反響してすごく気持ちがいいです。

信心も安心も知らないまま、ただお念仏をつぶやいて「これが御恩報謝かぁ。ふーん」と、なんまんだぶ なんまんだぶ とつぶやいてます。

「泣きながらお念仏をしたことがありますか?」
そんなことを人に尋ねて回ったこともありました。めんどくさいと言われたり、はぐらかされたり、時にはそういうのはよくないとたしなめられたりもしました。

そんなある時
「信無き行は不安の叫び 行なき信は観念の遊戯」
という言葉を教えてもらいました。

私のお念仏は不安の叫びなのだと知りました。
私がお念仏のことを考えていることは、観念の遊戯なのだと知りました。

今朝そんなことをぼんやり思い返しながら、不安に叫ぶ声も、観念の遊びも、御恩報謝として聞いてくださるんやろうなぁ。知らんけど。とか思いながら、ぶつぶつお念仏をしていました。

お御堂に一人座り、こうやってお念仏に遊ばれる時間というのは、とても楽しい時間です。

なんまんだぶ

お勤めと掃除が人生

昨日は、高熱で一日動けなかった、ってことにして事務仕事を封印。伸び放題になっていた境内の草刈りや、掃除に集中してました。

汗をぬぐいつつ箒を振っているとすぐに腕がだるくなってきて、運動不足を実感しました。案の定今朝は少し筋肉痛。こりゃサボりすぎたわ。

外に出てるとお参りの方とお話しする機会も増えるし、仏さまのお話を井戸端会議みたいな感じでできるチャンス(?)もできます。

慈海の仕事道具は、パソコンでも文房具でもなくて、やっぱり箒と雑巾だったなぁと改めて思いました。ちょっと事務に振り回されていろいろ煮詰まりすぎていたかもしれません。

事務仕事も頑張ります。けどお寺の仕事の中心はやっぱり、お勤めと掃除だよなぁ。お勤めと掃除が人生ですよ。いや事務もちゃんとやるけどね。

なんまんだぶ

ほめるっていうこと

「ほめるっていうことは、時として大変失礼なことなんやかならな」

他人に気に入られたい、仲間だと思われたい、いい人に思われたいという感情から、容易に人をほめてしまうことが慈海にはあります。

合コンの「さしすせそ」?だっけ?あれです。

さすが! 知らなかった! すごいですね! センスいいですね! そうなんだー!

まぁ、同じようなことを多用しているわけです。他人を承認することで、自分を承認してもらうために。

そんなことを思い出してぼんやり考えながらPCを開くと、ゾウの親子の写真と一緒に

「陸生哺乳類最大の脳を持つゾウは、複雑な思考ができる賢い動物です。」

という言葉が目に入ってきました。

陸生哺乳類最大の脳をもって<いない>慈海は、ゾウからなんて思われてるんだろうなぁ。

「無明」という言葉を知っていても、自らが無明であることを知るのは、いったいいつになるのだろう。

なんまんだぶ

これは光明らしい。

なんまだぶ