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聞見会

お念仏の会

実在するお浄土

2014年12月28日 by 慈海

大掃除の季節だ。
ここを読んでくださっている方の中には、この時期、家の大掃除と合わせて、お仏壇のお掃除(おみがき)をされているお宅も多いかもしれない。

お仏壇のお飾り(荘厳)というのは、なかなか細かいものも多くて、きちんと掃除をしようとすると、大掛かりになる。
畳の上に新聞を広げ、仏具やお飾りを一つ一つていねいに降ろして、分解して、金属磨きで磨いたり、新しい雑巾で拭きあげたりする。
お仏壇の中も綺麗に拭きあげ、磨き上げて、そしてまた元あったとおりに、仏具やお飾りを戻していくのだけれども、慣れていないと
「あれ?元々どうなってたっけ?」
なんていうことになる。

コツを言えば、(放光寺の住職様が教えてくれたことだけれども)お掃除を始める前に、写真を撮っておくといいそうだ。
今なら携帯電話で簡単に写真を撮ることができる。
また、勤行聖典には、お仏壇の荘厳の仕方が図入りで書いてあったりするので、それを参考にするのもいいかもしれない。

慈海の家では、今日お仏壇のお掃除をする予定だ。
お仏壇が綺麗になると、お参りするときもなんだか気持ちがウキウキとしてくる。
日々の日課が、さらに気持ちよく、楽しみになる。

先日、月忌のお参りにうかがった。
仏壇を見ると、いつにもまして綺麗になっている。

「おみがきしたんやぁ」

とおばあちゃんがいつものニコニコ顔で話し始める。

「お仏壇綺麗にすると、ほんと気持ちいいんやわぁ。綺麗になったやろ?綺麗になったやろ?

ほんとうに嬉しそうだ。おばあちゃんが続ける。

「あの子(息子さんのこと)やら、**ちゃん(お孫さんのこと)にも手伝ってもらって、ちょうど昨日綺麗にしたんやぁ。
わたし、もう脚も悪いで、一人やと大変やから、いつも手伝ってもらうんや。
ほんとに綺麗になったやろ?
お仏壇おみがきすると、気持ちいいもんねぇ。
胸がスーッとするねぇ。
だから、なおさら手伝ってもらうようにしてるんや。
お掃除すると、気持ちいいもんね。
一人でやると、自分だけ気持ちいいのはもったいないからねぇ。」

更に続けなさる。

「このお仏壇はねぇ、
お父さん(数年前に往生された旦那様)が大事にしてたし、
おじいさんもホントに大事になさってたから、
私がいる間は、大事にせなあかんなぁって、思うてるんやぁ。
あぁ、ほんとに綺麗になったわぁ。よかったぁ。」

そういって、手を合わせてお念仏をなさる。

『方便』という言葉がある。
“嘘も方便”というように、今では悪い意味で使われることが多いが、元々は

梵語ウパーヤ(upāya)の漢訳。近づく、到達するの意で、巧みな方法を用いて衆生しゅじょうを導くこと。
<教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版 注釈より>

という意味だそうだ。

つまり、如来の働きそのもので、智慧が慈悲となって具現したすがたを指すこともある。
しかし、気をつけなければならない。
一般論としてこの「方便」を語ると、それはたちまち、嘘になる。
自分を外において語られる言葉ではないのであろう。

仏教を学ぶと、ついつい哲学的な言葉遊びに終始してしまうことが多い。

「真実は、真実ならざるものを通してのみ、真実として現れるというてたなぁ」

という話を聞いた。

お仏壇の荘厳そのものが、仏様の真如のすがたと、手を合わせてこられた方々がいる。
西方極楽浄土は、実在の仏国土として、西の山端に沈む夕日に、手を拭い、お念仏されてきた方がいる。

その方々が手を合わせる先は、方便とか、真実とかそういう「チッポケな」言葉遊びを、とうに使い古した、言葉をもって言葉を超えた、実在の世界であったのだろう。

「浄土のない浄土真宗はないぞ」といつも聞かされている。
「浄土を真とすることを宗(ムネ)とするから、浄土真宗というんやろうなぁ。」とも聞かされた。

お浄土を、方便とか真如とかという分別でくくって、わかったふり、わからんふりをしていることが、真実の信心を得た姿とは、言いがたい。
それは、言葉の奴隷になっている姿かもしれない。
わからんふり、わかったふりが、一番の疑いの姿、最後の我の抵抗の姿かもしれないなぁ。

ようわからんけど。

「まぁた、わかってもえんことを、わかってえんもんが、わからんように話すから、わけがわからんことになる。」

と怒られそうだけれども、わからんまんまに

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

と称えれば、お悟りの世界そのものが、この慈海の周りに顕現されてるっちゅうから、やっぱりようわからんけど、とんでもない話なんやろな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: おみがき, お仏壇, 方便, 浄土真宗, 荘厳

【勉強会@スペースおいち】「書いて聞いて味わう仏教講座(第2回)」

2014年12月27日 by 慈海

日時:2015年1月27日(火)19時から
会費:1000円
場所:スペースおいち(福井市中央1-17-1ビッグアップルビレッジ2F)


 

「書いて・聞いて・味わう仏教講座」@スペースおいち
第2回の今回は、いよいよ『正信念仏偈』を書いていきます。
本番です!

「初めて参加したい」という方でも大丈夫。
初めての方には、まずは簡単なオリエンテーション的な内容を、ご用意しております。
途中の回から参加しても、講義内容に遅れてついていけない、ということがないように考えていますので、安心して、お気軽にご参加ください。
(もちろん、最初から続けて参加いただいたほうが、ベターというのはありますので、もし興味がお有りなら、早めにご参加いただいたほうが、メリットはありますよ)

ぜひ、お誘い合わせの上、多くの方にご参加いただきたいです。
そのほうが、たくさんの方と、いろんな「味わい」を共有できて、楽しいですからね!

あなたのご参加をお待ちしております。

 

 


「書いて聞いて味わう仏教講座」について

■書いてみる■
いわゆる「写経」のような堅苦しいものではありませんが、筆ペンで、「正信念仏偈」を書いていきます。1講座のうち、漢字56文字くらい(回によって異なります)ですので、気軽に書いてみましょう。字の上手い下手は気にしないで、筆で書くという動作を通して、「仏語」に真剣に向き合いながら、その「言葉」のもつ力に触れてみよう、という試みです。

■聞く■
書いた文字を、声を出して一緒になんどか読んでみます。そして慈海が、今書いたその言葉の味わい方を、ほんの少しだけご紹介します。

■味わう■
仏語を目で見て、手で書いて、耳で聞いて、そしてその響きを「味わう」のが、今回のコースの目的です。言葉がひらいてくれる、「言葉を超えた世界」を、味わってみましょう。

☆特典☆
本コースでは、スペースおいちさんからのご好意により、参加者の方全員に、筆ペンを一本プレゼントすることになりました。

また、文字を書く紙も、慈海がご用意します。
ですので、道具を用意する必要はありません。お気軽にご参加ください。

※注意事項※
会場の都合により、使用する筆は「筆ペン」のみとさせていただきます。ご自身で、墨や硯などをご用意されてきても、使用できませんので、予めご了承ください。

カテゴリー: お知らせ タグ: スペースおいち, 勉強会, 書いて・聞いて・味わう仏教講座

【聞見会念仏会(もんけんかいねんぶつえ)】2015年1月 第九回 @慈海坊仏間

2014年12月25日 by 慈海

日時:2015年1月25日(日)14時から17時(予定)
会費:不要
場所:慈海坊仏間(福井県坂井市春江町針原20-31)

 

2015年の最初の「聞見会 念仏会 (もんけんかい ねんぶつえ)」は、今までに引き続き、慈海坊で開催予定です。日時、及び場所の詳細は上記の通りです。

なお、開始時間の1時間前(13時)開場としますので、余裕を持っていらしてくださっても結構です。念仏会開始前に仏法談義というのも、いいかもですね。

■予定しているタイムテーブル■

開場(13時)
↓
念仏会開会(14時)
↓
讃仏偈のお勤め
↓
お念仏(30分ほど)
↓
回向
休憩
↓
お念仏(30分ほど)
↓
回向
休憩
ご法話お聴聞(15時半くらいから1時間ほど)
↓
仏法談義、歓談
↓
散会(17時)

ご法話は、いつも通り慈海がお取次ぎするかもしれませんが、もしかすると別の方にお願いするかもしれません。もしくは、いつもの様にご法話音源を一緒にお聴聞、とか、ご法話の本を朗読、となるかもしれません。

なお、開会日時などは予告なく変更になる可能性があります。その場合はこちらでご案内します。

ぜひ、一緒にお念仏しましょう。

なんまんだぶ

カテゴリー: お知らせ タグ: 仏法談義, 勉強会, 後生話, 念仏会, 慈海坊, 聞見会念仏会

クリスマス会で坊主が説教(後編)

2014年12月23日 by 慈海

>>前編はこちらをご覧ください

「あのさ、今日村の子供のクリスマス会があったんやけど、そこでお説教してね……」
「坊さんが、クリスマス会でお説教か!おもろいな。そんで、どうやった?」
「いやぁ、散々だった。」
「誰も聞かんかったか〈笑)」
「うん、もう、ほんとに散々だった……」

と、その日の顛末を話すと、ハハハと笑いながら聞いていた父が

「小さい子から、高学年の子まで幅広かったんやろ?そりゃぁむずかしいわ。プロの先生でも難しい。」

と話しだす。なんだか嬉しそうだ。
父に教えを請うというのもいいもんだ。

「やっぱそうかぁ。なんちゅうか、コツみたいなのないんか?」
「そやなぁ、まぁ、まずはコッチに注目してもらわんとな。」
「どういうこと?」
「お前は大人相手に話してるからわからんかもしらんけど、大人はな、何も言わんでも、前に立つだけでコッチに注目してくれるもんや。とくに坊さんとかやったらな、なおさらキチンとして話し聞く姿勢になってくれるかもしれん。でも子供はちゃう。何か関心を引いて、コッチに意識を向けさせんとな。」
「なるほどなぁ。でも、どうやったらいいの?」
「たとえば、紙芝居あるやろ。ああいうのがいいな。絵とか映像があったら、コッチ見てくれる。『何が始まるんやろ?』って興味を持たせんとな。そんでも、注目してくれてもすぐに飽きるから。変化がないとあかん。子供はすぐに興味が他に移るからな。それとな……」

さすが「教育」に人生をかけてきただけはある。
次々と的確にアドバイスする父の声が頼もしく感じた。
なんで事前に相談しなかったんだろう!
もし、来年また声をかけてくださることがあるのなら、リベンジだ!
と、その時熱く心に誓ったのであった。

そして、ここからが今年の話。

昨年とは別の幼なじみから、電話がかかる。
今年は彼が役員になったそうだ。

「今年もクリスマス会でお説教して欲しいんですけど、いいですか?」
「おう!ありがとう!がんばるよ!」

二つ返事でお話しを受ける。
もしかすると、昨年の惨状に呆れて、声はかからないかとも思っていたが、うちの村の若い衆は勇気がある。
“クリスマス会で坊主がお話しするって面白いじゃん!うちの村の名物にしよう!”
という話が出ていたとかいないとか。
ともかく、ありがたいことだ。

さて、今回は前回とは違う。
痛い思いもした。臥薪嘗胆、あの悔しさが慈海を育てた、はずだ。たぶん。

父からのアドバイス通り、紙芝居にしようか。
プロジェクターで動画でも流そうか。
大きな紙に絵を書いて、それを使ってお話しようか。

色々な案が頭のなかを駆け巡る。
そして、慈海は決めた。

マジックだ!!!

なんの変わりもない普通のバナナの皮を剥くと、何故かバナナの実が切れている、というマジックのタネを、先日知り合いから教えてもらっていた。
これは使える!
そう思って、何度か練習してみたところ、うまく出来た。
“一つのものを分けあう”
という話にすれば、クリスマスらしいお話しにも繋げられる!
見てろよ、村の小さい妖怪達め。

クリスマス会当日。
折しも大荒れの夜となった。
みぞれ混じりの雨のなか、会場へ向かう。
タネを仕込んだバナナを携えて、妖怪退治にいざ向かわん。

今年の坊さんは違うぞ。
マジックだけじゃない。
もしこの手が通用しなかったことも考えて、奥の手も用意してある。
ふふふ……

そう独りつぶやきつつ、携帯からすぐに流せるようにしておいた「ようかい体操第一」を再度確認する慈海。

万が一の時は、これさえ流せばなんとかなる!
時代を味方につけた坊主を甘く観るなよ。

会場入りする慈海。
控室で心を落ち着ける。
脳裏に前回の屈辱がよみがえる。

あのときの敗因は、そうだ、子供を甘く見ていたからだ。
今年は違うぞ。
今年は……
ん?

本当に今年は違うのだろうか?
手にしているそのバナナはなんだ。
携帯に仕込んだ「ようかい体操」とか、もう完全に子供だましではないか。
子供を騙して、なんの話をしようとしているのだ俺は?

そろそろお願いしますと、会場に通される。
会場は二階の広間だ。
階段の踊場に大きな鏡が据え付けられている。
その鏡を見て少しくギョッとした。

坊さんだ。
お袈裟を掛けた、坊さんがそこにいる。
しかも、頭には、サンタ帽を被っている!
(直前で、子供受けを狙って、サンタ帽だけかぶって出よう考え、借りて被ったのだった)

なんとも、へんてこりんな姿だ。
お袈裟が、煤けて見える。

子供だましだ。
嘘つきの姿だ。
ピエロでさえもない。
中途半端な格好をした小阿呆がそこにいた。

以前聞いた話を思い出す。

「ある時な、和上さんが青年団かなんかの報恩講でご法話することがあったんやと。
はて、困った。仏さんの話を聞いたことも無いもんに、何の話をしたもんか。
そう悩んだそうや。そんでな、和上はハタと思ったそうや。
大経はどうや。阿難尊者は、お釈迦様から法蔵菩薩のお話しを聞かされたとき、初めてその話を聞かされたんやったやなかったか。
そうしてな、法蔵菩薩のお話しをしっかりとされたそうや」(詳細渇割愛)

お釈迦様は、阿難尊者に、子供だましの話をされたやろうか。
小手先のマジックとか、流行りの歌で、ごまかそうとされたやろうか。

会場に入る。
まだ迷っている。
この期に及んで、頭のなかが真っ白になった。
手にはバナナ。
頭にはサンタ帽。
覚悟のない坊主を、無数の瞳が捉えて、昨年と同様はやし立てる。

合掌する慈海。
小さくお念仏をする。
ナンマンダブ ナンマンダブ ナンマンダブ ……
(いつものように、話そう。)

今日はね、クリスマス会の集まりやったねぇ。
さて、ほんなら、クリスマスって、なんの日や?
(爺さん、婆さんの前でしゃべるのとおんなじ、古い福井弁バリバリな話し方になってる!まぁいいか。)

ほや(そう)!よう知ってるのぉ、クリスマスちゅうのは、イエス・キリスト様の誕生日やったね。
じゃぁ、クリスマスちゅうと、もう一人有名な人がおるのぉ?誰やったっけ。

ほや!サンタクロースさんやったの。
んー?おかしいのぉ、イエス・キリスト様の誕生日なのに、なんでサンタクロースが出てくるんや?
サンタクロースって、一体誰や?

ここまで話して、マジックを披露するのを忘れていたことを思い出す。
しまった!バナナ、せっかくタネを仕込んだバナナ。
足元の袋に入ったままである。
マジックで、子どもたちの興味をコッチに向けさせるはずだった。
そのはずだったが……、おかしい。
マジックしていないのに、みんな、真剣にコッチを見ている。
真剣に、話の続きを待っている。
マジックしてないのに……

ええいままよ、とマジックのことは一旦頭から追いやって、そのままサンタクロースのモデルとなったという、セント・ニコラウスさんのお話を続けた。
子供向けに話をした。
けど、子供をだますような話はやめた。
スイッチが入った。

「話しに行こうとすんな。お前が話を聞かせてもらってこい」

以前、初めて大きな法要でご法話を取り次ぐ事になった時、師に緊張していると話したら、そう聞かされた。

「緊張するのは、お前、話を披露しようとしてるからやろ。聞いてこいや。聞きに行くもんが緊張するか?」

何度も、法座に立つときには、心に刻んできたつもりだったが、すっかり忘れてしまっていたようだ。

お話しが終わり、会場を出ようとするとき、とある女の子が駆け寄ってきて

「ぼんさん、ぼんさん、ありがと。これあげる」

クリスマス会で子供からもらったチョコと、チョコレートを差し出してくれた。
ああ、分け与えるということを教えようとしていたけれども、しっかりと、子供のほうが知っていた。
やはり、ここでも、慈海は聞く方であったか。

昨年は、完敗だった。
今年も、負けた。
ありがたい敗北だ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 


<補足>
とは言いつつも、せっかく用意したネタなので、途中でしっかりとマジックは披露しました。
が、せっかく苦労して用意したマジックですが、バナナの手品と分かった瞬間に
「知ってる!あれ、中身切れてるんやよ!」
と、ご丁寧に大声で言いふらしてくださる子もいたりして、あまり誰も見ていなかったです(苦笑)
子供のほうが、全然上手(うわて)でしたね。

<補足2>
お話しは、サンタクロースの話だけではなかったです。もちろん。
その気がアレば、また別でその時話した内容を記事にするかもしれません。しないかもしれません。

なんまんだぶ

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: クリスマス会

聞見会新聞【第三号(平成26年12月23日発行)】

2014年12月23日 by 慈海
聞見会新聞第三号表紙イメージ

聞見会新聞第三号表紙イメージ聞見会新聞 第三号 が、やっと出来上がりました。
第二号が2013年11月に発行されていますので、かれこれ1年1ヶ月ぶりの発行です。
大変長らくおまたせしてしまって申し訳ありません。

ウェブ版のPDFファイルは、このページ下からダウンロードできます。

今回のコンテンツは、前回に引き続き、
前川五郎松 著『阿呆堕落偈』より”え~か”の段、
そして、林遊さんのブログ『用管窺天記』より、「梵声猶雷震」の記事を転載、
法話として、慈海の『今将談仏力』の前席部分、
これは、本サイトにも連載していますが『念力門』 の第1回、
さらに、『書いて・聞いて・味わう仏教講座』のレビュー等を掲載しました。
ほかにも、お知らせなど掲載しておりますので、是非ご覧になってください。

なお、配送ご希望されていらっしゃる方には、これから配送準備して順次お送りいたします。
年内にはお手元に届くかと思いますが、もし来月になっても届かないという方がいらっしゃったら、
お手数ですが、どうぞ声をお掛けください。

また、今後毎月配送を希望される方がいらっしゃいましたら、
下記[配送希望フォーム]より、必要事項を入力の上、ご連絡ください。
代金は不要です。送料もこちらで負担いたしますが、もしよろしければ、聞見会の活動に寄付くださいますと嬉しいです。
(寄付の方法については、希望される方に個別でご連絡いたします)

できれば毎月新聞を発行したいと考えてはいますが、なかなか約束通り準備ができていない状況を鑑みて、
しばらくは、3ヶ月に1回発行するのを目標としました。

ということで、次号(第四号)は、来年平成27年3月22日に発行予定です。


 

聞見会新聞 第三号

■コンテンツ

  1. 『阿呆堕落偈(え~か)』
  2. 『梵声猶雷震』
    (ブログ『用管窺天記』より)
  3. 法話『今将談仏力(前席)』
  4. 連載『念力門』 一.天狗の門
  5. 『書いて・聞いて・味わう仏教講座』 第一回
  6. お知らせ
  7. 聞見会について
  8. 編集後記

■発行日
平成26年12月23日

■ウェブ版PDFダウンロード
icon_pdf_1r_641  聞見会新聞【第三号(平成26年12月23日発行)】PDF ウェブ版(1.58MB)


■ 配送希望フォーム


 

カテゴリー: 聞見会新聞 タグ: 念力門, 書いて・聞いて・味わう仏教講座, 用管窺天記, 聞見会新聞, 阿呆堕落偈

クリスマス会で坊主が説教(前編)

2014年12月22日 by 慈海

これは昨年のお話し。

村の子ども会の役員をやっている幼なじみから電話があった。

「今度子ども会でクリスマス会をやるんだけど、お説教してくれない?」
「おお、それはうれし……、え?クリスマス会?おれ、仏さんの話しかできんぞ?」
「いいよいいよ!ぜひ子どもらに、いい話聞かせてやって欲しい。」
「いいけど、うーん、本当に、いいの?俺、坊さんの格好で出るよ?」
「サンタの格好はだめ?」
「それだけは勘弁して」
「うーん、それでもいいや。坊さんの格好でもいいよ!いい話聞かせてやってよ!」

嬉しさ半分、不安半分で、その話を受けた。
だが、子ども会のパーティーとはいえ、さすがにクリスマス会である。
仏さまの話をする以前に、クリスマスということの最低限のことは復習しておかないと失礼と考えた。
図書館に走り、聖書やら、クリスマス関連の本やら、子供向けのお話しやら、たくさん本を借りてきてしばらく勉強した。
少々の不安を感じつつも、自分の中では準備は万端であった。

お話しのテーマは「プレゼント」だ。
何度も頭のなかでシミュレーションする。
うん、イケる。後ろで聞いてる大人たちにも、きっとウケルはず!

クリスマス会当日。バッチリ坊さんの正装をして、つまり、袈裟をかけて、会場に入る慈海。
慈海を見た瞬間、どよめく子どもたち。

「なんで坊さんやぁー!」
「あの坊さん知ってるー!」
「えー!なにはじまるんやー!」

お構いなしに、合掌する慈海。
話し始めると、かわいいもんだ、興味津々で、キラキラした眼で慈海を見つめる無数の眼。

だが、それも最初の5分位だけであった。
次第にざわざわし始める会場。隣の子とおしゃべりしだす子どもたち。
立ち上がってウロウロしだす子もいる。
中には「べんじょー!」と言って、連れ立って出て行ってしまう子供もいる。
そのうち、一番前に座っていた小学校高学年くらいの子が、慈海の話を遮り、小さい声で

「ぼんさん、俺らは何言いたいかわかるけど、あいつら(そう言って低学年の子たちを指さす)には、ちょっと難しくてわからんわ」

と、ヤレヤレという風に首をすくめられた。

この時用意してお話していたのは、次のような話だ。

みなさん、クリスマスはなんの日ですか?
そうですね、クリスマスには、サンタさんからプレゼントを貰いますね。そんな日です。
そのプレゼントというのは、おもちゃかもしれない。洋服かもしれない。
欲しかったものをもらえると、嬉しいね。
でもね、そのプレゼントを貰う前に、もっと大事なものをもらっているんですよ?
それは、なんでしょう?

たったこの六行くらいの話を進めるだけで、10分以上時間がかかっていた。
その上、本題に入ろうとした時には、もう誰も聞いていなかった。
そして、この子供のセリフである。

完敗だ!これは、完全な負け戦だ!!

そこで、慈海は閃いた。
“起死回生、よし、この方法で、戦況を覆すしか無い!”
会場の後ろの方にいた親御さんのひとりに、大声で

「すみませーん、ちょっとだけ、一瞬だけ電気消してもらっていいですかー!」

会場は既に子どもたちのしゃべり声で大賑わいである。
後ろの方にいた親御さんも、慈海が何を言っているのかわからなかった様子だが、二・三回繰り返して呼びかけると、意図が通じたらしく、電気を消してくれた。

途端にシンとなる会場。
さっきまでの喧騒が嘘のようである。

しかしすぐに

「ギャーーーーー!!!!」
「うぉーーーーーーー!!!!!!」

という、まるでドラゴンの巣窟にでも足を踏み入れてしまったかのような咆哮が、会場内をこだまし始めた。

「もういいです!電気つけてくださいーーー!」

一瞬だけ消してもらえればよかったのだ。
慈海の頭のなかでは、
<電気を消す→暗くなる→電気がつく→明るくなる>
この間、3秒ほどの、あっという間の出来事のつもりだったのだ。

そして、その一瞬の暗闇に驚いた子どもたちに向かって、おもむろに、こんな話を続けるつもりだったのだ

暗いと何も見えないね!
あのね、こんなお話を聞いたんだけどね、

あるとき、クリスマス会で、今みたいに子どもたちが集まってたんだって。
その時、神父さんが、子どもたちにこんな質問したらしいの。
「この部屋イッパイにプレゼントをうめつくすにはどうしたらいいかな?」
そしたら、みんなウーンって考えこんじゃったんだけど、一人の男の子が、手を上げて
「わかった!」
って言ってね、部屋の電気を消したんだって。
そして、ロウソクに火を灯して
「ほら!これでこの部屋中がプレゼントでいっぱいになったよ!」
って言ったんだって。
いつもは気づかないけど、実は、おもちゃとかそういうものだけじゃなくて、いつもぼくたちはプレゼントに囲まれて生きていたんだね!

「いい話」だと思ったのである。
仏教にも通じる話だと思ったのである。
少し難しいが、それでも、ゆっくり話せば通じると思ったのだ。

しかし、事前に打ち合わせも何もしていないわけだ。
電気を消してくれたまではいいが、なかなか電気が着かない。
会場は真っ暗なまま。徐々に子どもたちの咆哮が大きくなる。

「もういいです!電気つけてくださいーーー!」

叫ぶ慈海。
しかし、子どもたちの咆哮にかき消されて、電気のスイッチの近くにいる大人には、悲しいかな、慈海の声が届かない。

「もういいです!電気つけてくださいーーー!」

繰り返し繰り返し叫び続ける慈海。
やっとスイッチが入る。
チカチカと蛍光灯が震えて、文明の象徴が、明るく部屋を照らす。

だが、遅かった。

会場は、電気が消される前以上に、混沌が支配していた。

異常事態に興奮して走り回る子どもたち。
怖くて大声で泣き始める子どもたち。
お菓子やら座布団が中を舞う。
「あぁーぁ……」と、呆れた顔で、この後どう収拾するのか冷たい表情で慈海を見つめる大人たちの目。

泣きそうだった。
自分の無力さに、膝から崩れ落ちそうだった。
ただ、必死で、引きつった笑顔だけを保ち続けていた。
しかし、このまま会場を出る訳にはいかない。
なんとか、最後まで話をしなければ。
やけくそだった。
涙をこらえながら、会場の後ろの壁の一点だけを見つめて、当初予定していたお話しを、誰も聞いていない虚しいお話しを、そのまま最後まで、続けた。

合掌して、フラフラの笑顔で会場から出ていく慈海。
背中に聞こえる敵の凱歌が、心を貫いていく。

ちょっとした、トラウマになりそうであった。
ああ、袈裟を汚してしまった。
それに、キリスト教さんに申し訳ない……

家に帰り、衣に着替えながらそう落ち込んでいる時、ハタとあることを思い出す。
慈海の父は、ベテランの教師だったじゃないか!それも、小学校の!!
なぜ事前にアドバイスをもらわなかったのか!
こういうことのプロが、身近にいたじゃないか!!!!

そして、携帯をとり、父に電話をしたのだった。

(後編に続く)

 

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: クリスマス会

ネコの家出

2014年12月11日 by 慈海

一緒に住んでいる白ネコは、隙を突いてすぐに家出をする。

慈海坊は車通りの多い道沿いにあるので、事故が心配なため、ネコ達を家からは出さないようにしている。それでもネコ達にしてみたら、風に揺れるヒゲの感触、心をざわつかせる草木の青い匂い、肉球をひんやりと濡らす地面の冷たさが恋しいのかどうかは知らないけれど、気を抜くと、家の中に姿がなく、脱走した形跡だけを見つけることがよくある。窓の隙間や、引き戸の隙間をこじ開けて、時には網戸を爪で引き裂いて、自由な外の世界に飛び出していく。

先日も白ネコが、玄関の扉がきちんと閉まっていなかったのを目ざとく見つけ、外に飛び出していった。気がついた時には家の中はもちろん、家の周りをぐるりと見回っても姿がない。心配だけれども、まぁ食事の時間になれば帰ってくるだろうと、高をくくっていたが、丸一日経っても帰ってこないので少し心配になってきた。

夜には冷たい雨が降りはじめ、凍えていやしないか、もしや怪我してやいまいかと、幾度と無く夜中に探しに出る。いつもいる場所を何度覗いても姿も気配もない。とうとう車にでも轢かれたのかもと、道路に血の跡がないか探したり、側溝を覗きこんだりするが、なんの形跡もない。

思えば、この白猫はもともとノラ猫であった。
海辺を散歩していたら、ノラのくせに人懐こく寄ってきて、怖がるどころか連れの背中に登ってきたのだった。

「きっと一緒に行きたいのよ」
うちでは飼えないよといくら言っても、連れがきかないので、しぶしぶ連れて帰った猫であった。
部屋に入れたその日から、まるでそれがすでに決まっていたかのように、物怖じすることも、嫌がる様子もなく、勝手気ままにくつろいで、気がつけばもう8年ほどになるだろうか、一緒に暮らしたのだった

一緒に暮らしている時間が、彼を慈海の家族にした。
ただの猫とはいえ、彼との思い出も多い。

「自分から出て行ったのだ、戻ってきたかったら自分から戻ってくる。彼の居場所は、彼が決めるのだ。慈海が閉じ込めておく道理もない。暖かくて、安全な家に閉じ込めておくことが彼の幸せなのだろうか。いわゆる動物愛護とかいうモラルで言えば、それが正しいのかもしれないけれども、そういった正義の言い訳は、実は慈海の傲慢さから出てくる考えかもしれない。命が安全な場所が安心な場所じゃないのだ。心地よい場所が、安心な場所ではないのだ。彼の居場所は彼が決めるのだ。彼の安心な場所は、彼にしか決められないのだ。帰ってきたかったら、彼の方から帰ってくる。そうしたら、また一緒に暮らせばいいじゃないか。もし死んでしまったとしても、彼の命に対して慈海がどうのこうのいう話じゃない。慈海はあの白い猫にさえ依存心を起こしているのか云々……」

そう考えよう。そう考えるべきだと、理性を懸命に働かせて、頭のなかでブツブツ自分を説得しようと試みる。が、それでも不安な気持ちは、心のなかでグログロとうずを巻いて押さえつけようがない。
たかが飼い猫。されど飼いネコ。
「恩愛甚だ断ちがたく~」の言葉通りかもしれないなどと、さらにブツクサ。

としていたところ、近所のおじさんとすれ違ったので、
「うちのネコみかけませんでした?」
と声をかけると
「さっきうちの庭にいたよ」と、意外な返事。

「えぇ!そ、それはどれくらい前ですか?」
「50分ほど前かなぁ。でも、もういないと思うよ。」
「一応覗いていっていいですか?」

そんなやりとりをしながら、近所のおじさんの庭を覗くと、大きな庭石の上に、まるで置物のようなとよく言われる喩えそのままに、チンと鎮座している白ネコが目に入った。まるで、そこの庭の主か、はたまた妖怪か。家の中では見たことのない、ある意味威厳のある姿で、静かに座っていた。

名前を呼ぶと、妖怪がゆっくりとこちらを見据える。
しかし、口を開け、ニャァと応えた時には、もう妖怪ではなくなっていた。
そろそろと庭石から降り、テテテと慈海の足元に走りより、脛におでこを擦りつけてくるので、それじゃぁ帰ろうかと抱きかかえ、暖かい慈海の家に連れて帰ったのだった。

 

「安心(あんじん)ちゅうのは、心の置き場所ちゅうことやな。不安であろうがなんであろうが、その不安な心の置き場所が定まることを、安心(あんじん)ちゅうんやろうな。」
と聞いた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
(『草枕』夏目漱石)

考えなしに虚勢は大きく意味なく角ばかり立てて、情に流され地に足つかず、意気地もないのに意地を張り、わかったつもりで、慈海は何にも身についてない。

心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す
(顕浄土真実教行証文類 後序)

心の置き場所。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: ネコ, 安心, 後序, 顕浄土真実教行証文類

懐かしい声

2014年12月10日 by 慈海

風呂にはいるとき、湯船にゆっくり浸かるときは、携帯を持ち込んで、法話やら、師と法談している時に録音したものを聴いていたりしている事が多い。

今日は冷えた。
なので、ゆっくり湯船に浸かろうと湯船に湯を貯める前に、本物の御法話をじっくりお聴聞したいなと思い、梯和上のご法話音源を引っ張り出してきて、再度携帯に突っ込んでみた。

どれを聴こうかなと、あれこれ出だしを再生していると、染香人のご和讃を御讃題に頂戴されているご法話が耳に止まった。

ああ懐かしいなと、そのまま風呂にはいるのも忘れてじっと聞き入る。

何度も何度も聞いたご法話だ。
サラリーマンの時、満員電車の車内で、思わずお念仏をつぶやいて、隣に立っていたの綺麗なお姉さんやらおじさんやらに、ぎょっとした顔で見つめられたのが、この御法話だった気がする。

あれから何年経ったか。

一昨年のこと、福井の千福寺さんで、梯和上の勉強会が開催されるからどう?と河久保道場の水上さんに誘われ、初めて梯和上にお会いすることができた。

勉強会の途中、「あぁ、あの時の声の主が、今まさに、目の前に立っている」と心が震えた。

その梯和上も、先日お浄土の住人となられたそうだ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

今称えているこの声の主を、いずれ慈海もまた、眼のあたりに見たてまつる時が来るのだろうか。

懐かしい、念仏の声を、先んじて、ほんの少しだけよろこぶ。
ご開山のようには慶べないけど、毛の先ほどだけ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 慶, 梯和上, 法話

名前を書く、名前を聞く、名前を味わう

2014年12月8日 by 慈海

月に一度、聞見会主催の仏教勉強会を、福井駅前の「スペースおいち」さんをお借りして開催している。

先月から、新しいカリキュラム「書いて・聴いて・味わう仏教講座」というのを始めた。
正信念仏偈を毎回少しづつ書いていって、それを音読し、そして味わってみようという試みだ。

仏教講座ということで、少し敷居が高いかなと思われるかも知れないが、仏語に触れて、仏語という「言葉」が開いていく世界を、一緒に味わってみようという思いで始めてみた。

そして、先月末の第1回目は、まずは「言葉」を書いて、聞いて、味わうということを、オリエンテーション的にやってみようということで、参加者の方にご自身の名前を書いていただき、そしてそれを各自自分で読み上げ、感じたことをみんなで話し合ってみた。

思いつきでやってみたことではあるが、これがなかなか面白かった。

自分の名前を、丁寧にじっくりと大きく紙に筆で書く、なんていうことは、めったにないことだ。
さらに、その自分の名前を、改まって声に出して読むということをしたことがある人は、あまりいないのではないだろうか。

名前と言うのは、「言葉」である。
自分と認識している存在に与えられた「言葉」である。

紛れも無く、その「言葉」は、自分自身を指し示しているのであって、自分自身もそのことを自覚しないままに、その「言葉」を受け入れている。

その「言葉」の背景に広がっているものというのがある。
その「言葉」は、「言葉」を超えたものを、「言葉」として具現している。

よくよく考えてみると、実は、自分自身でさえも、自分の名前という「言葉」の持つ働きについて、あまり知っていないのかもしれない。

とても新鮮な経験であった。

「人から名前を呼ばれると、嬉しい」

と、参加者のお一方がおっしゃった。

名前を呼ばれると、嬉しいというのは、どこからくる喜びだろう。

「お念仏は呼び声やぞ」と聞いた。

仏の名を呼ぶ声で、喜ぶのは、私だろうか、仏だろうか。
きっと、師にたずねれば、

「問いが間違っとる。おんなじことやろ。」

と言われそうだ。わからんけど。

 

明日12月9日の19時から、先月やったこの講座と同じことを、再度開催することになった。
告知後、早速女性の方からも参加の申し出があった。
たくさんの方に来てもらいたい、そして、一緒に「言葉」のひらく世界というのを、一緒に語ってみたいという思いがある。

ぜひ多くの方が来てくださったらと、楽しみだ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: スペースおいち, 勉強会, 書いて・聞いて・味わう仏教講座, 言葉

「うらは知る必要なし」

2014年12月4日 by 慈海

定期的に繰り返しているけれども、不調で動けなくなる。
不摂生故にと怒られそうだけれども、来てしまう波はしょうがない。
少し復活。

復活してくると、とたんに歯が痛くなってきた。
歯医者も行かねば。

「浄土真宗は難儀やねぇ。念仏しても人は苦しむ。」
そう親しい人に言われ、苦笑いするしかなかったけれども、それに「苦のままでいられるのが云々」とか、「苦しむ人がいるから念仏が云々」いう講釈は、薄っぺらく感じる。

称うれば、われも仏もなかりけり、唯なむあみだぶつ。念仏はどんなご利益あるのやら、狸爺は知らないけれど、出るにまかせて唯なむあみだぶつ。なむあみだぶつが知って居るから、うらは知る必要なし。
(阿呆堕落偈)
*「うら」=福井弁で自分を指すことば

と聞いた。
越前の五郎松という爺さんがそういいなさったらしい。

ああ、歯が痛い。歯医者に行かねば。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 阿呆堕落偈
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