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阿呆堕落偈

聞見会新聞【第三号(平成26年12月23日発行)】

2014年12月23日 by 慈海
聞見会新聞第三号表紙イメージ

聞見会新聞第三号表紙イメージ聞見会新聞 第三号 が、やっと出来上がりました。
第二号が2013年11月に発行されていますので、かれこれ1年1ヶ月ぶりの発行です。
大変長らくおまたせしてしまって申し訳ありません。

ウェブ版のPDFファイルは、このページ下からダウンロードできます。

今回のコンテンツは、前回に引き続き、
前川五郎松 著『阿呆堕落偈』より”え~か”の段、
そして、林遊さんのブログ『用管窺天記』より、「梵声猶雷震」の記事を転載、
法話として、慈海の『今将談仏力』の前席部分、
これは、本サイトにも連載していますが『念力門』 の第1回、
さらに、『書いて・聞いて・味わう仏教講座』のレビュー等を掲載しました。
ほかにも、お知らせなど掲載しておりますので、是非ご覧になってください。

なお、配送ご希望されていらっしゃる方には、これから配送準備して順次お送りいたします。
年内にはお手元に届くかと思いますが、もし来月になっても届かないという方がいらっしゃったら、
お手数ですが、どうぞ声をお掛けください。

また、今後毎月配送を希望される方がいらっしゃいましたら、
下記[配送希望フォーム]より、必要事項を入力の上、ご連絡ください。
代金は不要です。送料もこちらで負担いたしますが、もしよろしければ、聞見会の活動に寄付くださいますと嬉しいです。
(寄付の方法については、希望される方に個別でご連絡いたします)

できれば毎月新聞を発行したいと考えてはいますが、なかなか約束通り準備ができていない状況を鑑みて、
しばらくは、3ヶ月に1回発行するのを目標としました。

ということで、次号(第四号)は、来年平成27年3月22日に発行予定です。


 

聞見会新聞 第三号

■コンテンツ

  1. 『阿呆堕落偈(え~か)』
  2. 『梵声猶雷震』
    (ブログ『用管窺天記』より)
  3. 法話『今将談仏力(前席)』
  4. 連載『念力門』 一.天狗の門
  5. 『書いて・聞いて・味わう仏教講座』 第一回
  6. お知らせ
  7. 聞見会について
  8. 編集後記

■発行日
平成26年12月23日

■ウェブ版PDFダウンロード
icon_pdf_1r_641  聞見会新聞【第三号(平成26年12月23日発行)】PDF ウェブ版(1.58MB)


■ 配送希望フォーム


 

カテゴリー: 聞見会新聞 タグ: 念力門, 書いて・聞いて・味わう仏教講座, 用管窺天記, 聞見会新聞, 阿呆堕落偈

「うらは知る必要なし」

2014年12月4日 by 慈海

定期的に繰り返しているけれども、不調で動けなくなる。
不摂生故にと怒られそうだけれども、来てしまう波はしょうがない。
少し復活。

復活してくると、とたんに歯が痛くなってきた。
歯医者も行かねば。

「浄土真宗は難儀やねぇ。念仏しても人は苦しむ。」
そう親しい人に言われ、苦笑いするしかなかったけれども、それに「苦のままでいられるのが云々」とか、「苦しむ人がいるから念仏が云々」いう講釈は、薄っぺらく感じる。

称うれば、われも仏もなかりけり、唯なむあみだぶつ。念仏はどんなご利益あるのやら、狸爺は知らないけれど、出るにまかせて唯なむあみだぶつ。なむあみだぶつが知って居るから、うらは知る必要なし。
(阿呆堕落偈)
*「うら」=福井弁で自分を指すことば

と聞いた。
越前の五郎松という爺さんがそういいなさったらしい。

ああ、歯が痛い。歯医者に行かねば。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 阿呆堕落偈

阿呆堕落偈(あほだらけ)

2014年1月2日 by 慈海

阿呆

 

《あ》 阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。
*阿呆堕落偈(あほだらけ)前川 五郎松 著

世間には、「賢くなる」勉強があふれている。
「賢くなる」というのは、「言葉」を知っていくことであろう。
より多くの言葉を知り、その言葉の使い方を身に着け、言葉を自在に使いこなせるようになることが、「賢くなる」ということだ。

「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だけではない。
意思疎通する際にのみ、この「言葉」が必要なのではない。

人は、モノ・コトを考えるとき、自分の頭の中でも「言葉」を羅列させる。
逆に言えば、「言葉」があるからこそ、人はモノ・コトを考えることができる。
考えるということは、その対象となるモノ・コトを認知するということでもあるだろう。

より多くの「言葉」を知り、その「言葉」の意味を知り、その「言葉」の使い方を身に着け、それをコミュニケーションはもとより、自己の思考を深めることが、世間では「賢くなる」ということではないだろうか。

しかし、この「言葉」という道具を使っているつもりが、逆にこの「言葉」に使われてしまっているということがある。

人は、知性を手に入れた。
それは、この「知性」に支配されたということかもしれない。

『この世には、阿呆になる勉強があるのかもしれんなぁ』
そう、慈海は聞いた。

賢くなる勉強はあまたあふれている。
賢くなることは、強くなることかもしれない。
賢くなることは、生き抜く術かもしれない。

しかし、「賢くなる」ことにかまけて、この「言葉」にならない「思い」を、置いてけぼりにしてしまうことは無いだろうか。

『賢くなる勉強はようけあるけどなぁ、阿呆になる勉強ほど、難しいことは無いかもしれんなぁ』
『お前はな、小阿呆になるなよ。どうせ阿呆になるんなら、大阿呆にならんとなぁ』

阿呆を装うことも、また「賢さ」である。

本物の阿呆になる道は、険しい。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 前川五郎松, 書, 言葉, 阿呆堕落偈

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