綺語が出る
ご法話を取り次ぐ際、予定していた話とは、全く違う内容になることがよくあります。
いやむしろ、そういう時のほうが多い気がしますし、そういった時の方が、お聴聞されてる方のお念仏の声が大きく聞こえる気がします。
今日は、春江町順勝寺様で勤められました、仏教婦人会報恩講で、一座のお取次ぎのご縁を賜りました。
事前に御讃題(ごさんだい:法話のテーマとなる聖典からの言葉)もキッチリ決めて、頭のなかで話題の時間配分まで計算して臨んだのですが、口から出てきたのは、全く予定とは異なる内容になっていました。
後になって思えば、今、慈海自身に一番聞かせたい話を取り次いだのだろうなぁと、思ったりもします。
最近、ご文章を拝読している時に、心をこめて、感情を込めて、拝読している自分に、「あぁ、これは違う」と、ふと思い至りました。反省しました。
ご文章が持つ「言葉の力」を、慈海の情で、邪魔をしていたのです。
それは、決して袈裟をかけているものが、してはいけないこと。
お取次ぎもそうでした。
常に、「聴かせるつもりはやめなさい。」とたしなめられているにもかかわらず、「教化者意識」は消えさることはありません。消しても、潰しても、振り払っても、この「承認されたい」欲求が、慈海の心の奥底から、ジッと目を見開いて、休むことはありません。
以前、師と話していて、ああこの欲求の底に有るのが、「無明」ということなのだなぁと聞かされました。
慈海の場合は、その無明から、綺語が出てくるようです。
それが、妄語になり、両舌になり、悪口をいだしていくようです。
一生、この綺語の出る身と、付き合っていかなければならないのでしょうか。
浅ましい、そうつぶやく言葉と合わせて、なんまんだぶ と耳に聞こえてくださるのです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ