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聞見会

お念仏の会

念仏

だからこそ、この場所があって、この身があるのではなかったか。

2018年11月1日 by 慈海
どんだけ古くなっても、傷んでも、ガタが来ても、光り続けるこの御内陣の床は、紛れもなく先ににお浄土に往かれた先輩方が日々磨き続けた証であり、先輩方の御恩報謝のおスガタであり、慈海に往生勧めてくださるカタチであって、この床を、先輩方の真似をして同じように光らせ続けられる間は、どうか慈海にご奉公を続けさせてほしいと思うんです。

たしか今くらいだったかなと思って、昨年の記録を見返してみた。

昨年10月23日に、台風によって吉崎別院は大きな被害を受けた。一晩中続く暴風雨にオロオロしながら何度もお御堂を点検しに行ったり境内を見回ったりした。真っ暗な境内からはガタガタと何かが飛んで行ったり風にあおられる音がしていたけれども、何もできず必死で懐中電灯で境内を照らしながら目を凝らしていた。

朝になって明るくなって、境内を見ると経堂の屋根の銅板が吹き飛ばされ、境内に散乱していた。現実感のない光景に唖然としながら、吹き込んできた葉っぱや枝などでぐちゃぐちゃになった通路を駆け、本堂に入ると扉が吹き飛ばされて土埃が舞っていた。畳の上はもちろん、お内陣の仏様の周りまでも埃だらけになっていて、慌ててご本尊や御開山聖人、勝如上人様、七高僧様、聖徳太子様の安全を確認し、仏具に異常がないかを確認して回った。

停電していたのでお仏飯が炊けておらず、電気がなければご飯も炊けないことに慣れてしまった現代の自分が情けなく思った。とにかく電線が切れて漏電している可能性もあるし、建物に被害がないか確認するために、境内に散乱した銅板やクギなどに気を付けながら外に出て見回りしたけれども、とにかくお御堂の屋根瓦が落ちていたり、御山の土砂崩れなどがないことを確認してすこしほっとしたところで、境内の荒れ果てた状況を眺め、これを今から一人で片づけるのかと段取りを頭の中で考えながら少し涙が出た。

※その時の様子

とにかくまずは、こんな日でも朝が来た、朝が来た限りは晨朝勤行をしなければと、法衣に着替え、いまだ埃っぽい風が吹き荒れるお御堂のなかで、ひとり座り、お勤めをした。汚いまま荒れたままの上、お仏飯も無いままで晨朝のお勤めをしているのが、仏様に申し訳なくて申し訳なくて、読経中なんども声が詰まった。

いつもは一人でも誰かお参りに来てくれないかなと思っているのに、この日ばかりは誰にもこんな状況の中でお参りしてほしくなくて、だれも来るな誰も来るなと思いながらずっと掃除していた。けれども、そんな日にもかかわらずお参りに来られる方はいらっしゃる。埃だらけのお御堂を掃除していると、ご家族でお参りに来られた方があった。こんな状況でごめんなさい、どうぞ土足でお入りくださいとお通しして、荒れた本堂の中で蓮如さんとお念仏の話をした。何よりもこの時が一番申し訳ない気持ちになったかもしれない。

とりあえずの掃除や応急処置的なことはその日のうちに終わらせたけれども、それから1か月以上はお内陣や本堂の掃除が大変だった。散乱した経堂の銅板は半年以上放置されたままで、経堂自体は今も屋根がむき出しのままだ。雨雪にさらされて徐々に朽ちて行っているのを見守るだけしかできないのが今も続いている。

※とりあえずお御堂の中はその日のうちに綺麗にした
※経堂は1年たっても修復のめどが立っていない

この日まで、吉崎に入って1年半、必死で境内もお御堂もきれいにしてきたつもりだった。もちろん自分だけの力じゃないけれども、お参りに来られた方が「結構さびれてるって聞いてたけど、全然きれいにされているじゃない」とか「ここに上がるとほんと風が気持ちいわ」とかそんな言葉がちらほら聞こえるようになって、ちょっと得意になっていたし、何よりも気持ちよくお念仏してくださる方々の姿がうれしかった。

けれども、たった一晩で、吉崎に入る前以上に荒れ果てた状況になってしまった景色に、なんとも言えないむなしさを感じていた。もちろん、結果を求めるために頑張っていたつもりじゃなかったけれども、それでもやっぱり、どうしても、こころの隅に佇むむなしさは去ってはくれないままであった。

そんなことがあってぼうっとしていたのかもしれないし、たまたまかもしれないけれども、昨年11月4日に交通事故に遭った。相手の責任が九割の自己であった。乗っていた自分の車のフロント部分が大破し廃車になった。幸いに相手も自分も怪我ひとつなかった。しかし、エアバックが開いた瞬間のことを今もたまに思い出す。事故の後数日間、自分の人生というものが消えてなくなるのもまた一瞬のことなんだなと、命ということのむなしさが頭から離れなかった。

※事故の時の様子

なんだか、いつも自分が語っていることも、また空しくて、そんなことを偉そうに人に向かって話しているのかと、自分がとても阿呆に思えて仕方なくなった。

そんな時、たしか昨年の11月の終わりのころだったかと思う。年末も近づいてきたし、おみがきをしなければと、夜中におみがきがてら、本堂のお内陣を夜中に掃除していた。台風でお御堂の中に吹き込んできた埃がまだ隙間に残っていたので、年を越す前にせめてお内陣だけでもピカピカにしたくて、いろいろな仏具を拭きつつ、移動させながら、はいつくばって床を水拭きしたりしていた。

深夜過ぎまで掃除していただろうか。疲れもあってか、お内陣の床をふきながら眠ってしまったのかもしれない。ふと気配を感じてご本尊の方を見ると、宮殿(くうでん)から金色に光る阿弥陀様が降りて歩いて降りてこられた。夢うつつな気持ちで<あぁ阿弥陀さんが降りてきなさった……>と不思議に別に驚く気持ちも起きずぼんやりとその様子を眺めていると、今度は外陣の戸の方に気配を感じる。お御堂の明かりがついていたので、夜中にもかかわらずお参りの方が入ってこられたのかと、その時はとっさにそう思った。慌てて振り返ると、黒い衣を着た僧侶らしき人が外陣からこちらを覗いていた。

「すみません、今掃除中で……」と言いかけながらその方の顔をみると、なんとなく見覚えがある。ニコニコとした表情でこちらを見てらっしゃる。<蓮如さんや!!>なぜか確信をもってその方が蓮如さんだと理解した。「ももも……申し訳ありません!こんな格好でお内陣も片付いていなくて!!!」と言いかけたところで、蓮如さんらしきかたがおっしゃる「がんばってるねぇ。あんまり根詰めなさんなやぁ。」あまりにもったいなくてかたじけなくもったいなくて、土下座して何か言おうとしたところで目が覚めた。

もちろんご本尊の阿弥陀様はいつもと同じく宮殿の中に静かに立っていらっしゃるし、外陣には誰もいない。夢だったのか、幻だったのか、なんだか不思議な気持ちのまま、しばらく動けないでいた。今思えばもちろんただ眠ってしまっていただけであろう。特別な体験というわけでもないし、あらたかなことがあったというわけでもない。ただ夜中に掃除してて眠りこけて夢を見てしまっただけだと思う。

けれども、「本願力に遇いぬれば 空しくすぐる人ぞ無き」の御和讃のお言葉がこの一年何度も何度も頭の中に浮かんで聞こえてくる。

いずれこの身も朽ちていく。それも唐突にそういう時があるかもしれない。今日かもしれない。明日かもしれない。同じくどんなに歴史的な場所であっても、どれほど文化的にも宗教的にも貴重な場所だといっても、そういう場所が永遠に続くわけでもない。この身と同じく、無常の風が吹けば簡単に吹き飛ばされるような、そういう世界に私もこの場所も、ある。

だからこそ、この場所があって、この身があるのではなかったか。だからこそ、この場所で、この身で、後生の一大事を聞かされてきたのではなかったか。だからこそ、過去無数の方々が、この慈海に、お念仏を聞く身になっておくれよ、浄土に参るものであるぞと、大千世界にみてらん火をも厭わず、慈海にこの場所にあらせしめ、慈海にお念仏称えさせしめているのではなかったか。

今年も銀杏がたくさん落ち始めた。掃除が邪魔くさいとも思う。朝早く起きて晨朝勤行するのもしんどいと思う。邪魔くさい、しんどいと思う慈海だからこそ、掃除する場所も、勤行を勤める場所も用意くださってたのかもしれない。

なんまんだぶ

 

(ちなみに、この昨年の台風被害の後、記録的な大豪雪で雪に閉ざされてしまったのは、また別の話……)

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 台風, 吉崎, 吉崎別院, 吉崎御坊, 念仏, 掃除, 経堂, 蓮如さん, 蓮如上人

一遍さんのような方が必要なんじゃないだろうか。

2014年1月29日 by 慈海

信心ばかりが先行してしまった今、行を見直す時なんじゃないかとふと思う時がある。
本覚思想とか揶揄されようとも、一遍さんのような方が、今の時代必要なんじゃないだろうか。
頭でっかちに語り、理解したつもりのそれは、決して「信心」ではない。行を無くした信なんていうのはありえない。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(高僧和讃:結讃 / 正像末和讃)

信心ちゅうのは、不可称不可説不可思議、つまり、称(はか)ることも、説くことも、思い議することこもできるわけがない。
それを、頂いたとかいう発想を、もういっぺんきちんと見つめなおしたほうが良いのだろう。
「信心」という「概念」をもろうてるんちゃうんや。

念仏ましませ。
なんまんだぶ とその口からその耳に聞いてみなされ。
阿呆になって、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と称えてみなせ。

本願を信じさせ、念仏を申させしめて、仏とならしめる、如来さまのはたらきやったなぁ。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 一遍, 不可称不可説不可思議, 信, 信心, 念仏, 正像末和讃, 行, 高僧和讃

1.天狗の門 

2013年10月25日 by 慈海

その門は、特徴的なその大きな鬼瓦から、「天狗門(てんぐもん)」と呼ばれていました。

天正十九年(1591年)、当時の関白太政大臣であった豊臣秀吉の寄進によって、浄土真宗の本山である本願寺(ほんがんじ)が建立されました。
境内には、今でも桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されています。
重要文化財の阿弥陀堂(あみだ堂)と御影堂(ごえいどう)。
秀吉の邸宅であった聚楽第(じゅらくだい)の一部を移築し、金閣、銀閣とあわせて京都三名閣と称される国宝飛雲閣(ひうんかく)。
同じく国宝の唐門(からもん)は、桃山時代の豪華な装飾彫刻が見事で、眺めていると日が暮れることを忘れてしまうほどであることから、「日暮しの門(ひぐらしのもん)」とも呼ばれていました。
そのほかにも国宝、重要文化財が数多く残されているこの本願寺は、平成六年(1994年)十二月には、ユネスコにより世界文化遺産に登録されました。

その本願寺の北側にあったのが、例の天狗門です。
正式には「北乃総門(きたのそうもん)」と呼ばれる、本願寺の北側の総門でした。
四脚唐門(しきゃくからもん)様式のこの門は、本願寺境内と同様に、秀吉によって寄進され、建立された門の一つでした。
国宝とされた唐門と比べれば質素ながら、数百年の間、お念仏とともに本願寺に参られ、またお念仏ととも帰って行かれる無数の方々の声を、黙って聞いてこられた門でありました。

元治元年(1864年)の夏、尊王攘夷を掲げる長州藩が、京都守護職であり、新撰組を配下にもつ会津藩主松平容保の排除を目指して挙兵し、京都御所西門の蛤御門で武力衝突しました。
後に言う蛤御門の変(禁門の変)です。
この変に伴い、京都の大半が火に包まれました。
鉄砲の音とともに、京のまちは手の施しようのないほど炎上し続け、東本願寺や本能寺をはじめとする、多くの寺院が焼失していきました。
この火災はみるみる火の手が広がっていく様から、「どんどん焼け」とも、鉄砲の音とともに火の手が広がっていくことから「鉄砲焼け」とも呼ばれたそうです。

本願寺にも火の手が迫ってきていました。
想像するに、おそらく火の手に追われた町の人たちが、多く本願寺境内に逃げ込んで来ていたことでしょう。
火の粉が舞い、あちこちで鉄砲の音が鳴り響き、京の空は赤く染まっています。
煙にむせながら、恐怖に震えつつも阿弥陀如来に、親鸞聖人の御影に、助けてくれ助けてくれと、お念仏を繰り返される方も数多くいたのではないかと思います。
走り回る僧侶の方々、叫びあい無事を確かめあう人々。
境内に響く無数のお念仏の声。
それでも本願寺の北側には、情け容赦なく火の手が迫ってきます。
しかし、その前に、本願寺北乃総門、通称天狗門と呼ばれたあの門が、立ちはだかりました。
かろうじてこの天狗門によって火の手は遮られ、本願寺の類焼は免れることとなりました。
そして、この天狗門は、以降「火止の御門(ひどめのごもん)」とも呼ばれるようになりました。

本願寺北乃総門、通称天狗門とも、火止の御門とも呼ばれたこの門は、静かに京の街を見つめ、本願寺を守り、行きかう人々のお念仏の声を聞きながら、それからも時代の移り変わりを黙って見つめ続けていました。
江戸幕府が朝廷に大政奉還し、明治時代、大正時代を経て、昭和の時代日本は太平洋戦争に突入し、そして敗戦します。

敗戦後の昭和二十五年(1950年)十月、京都の町を国際的な文化観光都市とする計画が立ち上がります。*
さて、このころ、京都の都市計画により、京都の道路や土地区画を整理することとなりました。
その際、本願寺北乃総門(天狗門、火止の御門)が、この計画によって、取り壊されることが決定しておりました。
秀吉の時代から350年以上、お念仏にすがる方々の姿を見守り続け、時には火の手にさらされながらも、威厳を持って静かに立ちつづけたこの門も、とうとう最後の時が迫ってきました。

この話を耳にした、ある男がおりました。
福井県あわら市にある西本願寺吉崎別院の輪番、巨橋義信(こばしぎしん)師でした。

(つづく)

今だから読んでもらいたい「念力門」の話(プロローグ) <

 

*この都市計画については、現在調査しなおしています。実際、いつ、どういった経緯で計画された、どのような計画なのか、わかりましたら、改めて追記いたします(2014年5月1日 慈海 注)

カテゴリー: 念力門 タグ: どんどん焼け, 世界文化遺産, 京都国際文化観光都市計画, 北乃総門, 吉崎, 唐門, 四脚唐門, 天狗門, 巨橋義信, 御影堂, 念仏, 日暮しの門, 本能寺, 本願寺, 東本願寺, 火止の御門, 火災, 禁門の変, 聚楽第, 蛤御門の変, 西本願寺, 輪番, 鉄砲焼け, 阿弥陀堂, 飛雲閣

非日常という日常

2013年10月20日 by 慈海

まだ私が小学生だった頃、おばば様に「いい子や」といわれるのがうれしくて、毎晩のおつとめの時、おばば様の隣で、お念仏の真似事をしていました。

お仏壇の前におばば様と並んで座り、おばば様の持つ手垢で縁が黒ずんだ聖典を、一生懸命覗き込んで、足がしびれるのをじっと我慢して、「いい子や」といってもらうために、おばばさんの口真似をしていました。

そんな私も、物心がつき始めると、おつとめよりもテレビや友達と夜更けまで遊んでる方が楽しくて、だんだんとほとけさんから遠くなっていきました。

あれから20年近くたつでしょうか。

今年に入って、ふと、そんな子供の頃を思い出し、お念仏について興味を持ちました。
「南無阿弥陀仏ってどういう意味なんだろう?」

単に雑学を仕入れる程度の興味だったかもしれません。
便利なもので、ネットで調べると色々と情報が載っています。

“南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ、南無阿弥陀佛、南無阿彌陀佛)とは、「南無」はnamo (sanskrit) の音写語で「わたくしは帰依します」と意味し、「阿弥陀仏」は、そのサンスクリット語の「無量の寿命の大仏 (amitaayus)」「無量の光明の仏 (amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamita (sanskrit) を略出したものである。”
(出展:wikipedia)

あちこちのサイトや情報を見ては、「へー」と言葉の上でわかったつもりになって、知ったつもりになって、雑学的に興味を持っていきました。

でも、調べるほどによくわからなくなる。

「なんでお念仏を唱えるのか?」
「お念仏を唱えると、何かいいことがあるのか?」

「不思議な呪文なのか?それとも自己暗示なのか?」

「結局、ほとけさんは今のこの私を助けてはくれん。
お金がなくて苦しくても、天からお金を降らしてくれるわけでもない。
飢餓で苦しんでいる人に米を与えてくれるわけでもない。
なによりも、今の自殺者の多いこと。
何でほとけさんはそんな生きる苦しみから救ってくれんのか。
お念仏といっても弱者の逃げ口上じゃないのか?
結局、お念仏を唱えたからってなんなんだ?」

そんな疑問と自己満足で独りよがりな自問自答を繰り返し、哲学ごっこ遊びをしていた時、おばば様が亡くなりました。

葬式のために実家に帰る新幹線の中で、今までのおばば様の人生を思いました。

苦労や、悲しみや、悔しさや、腹立たしさが多くあったであろうおばば様の一生。
そんな一生で、おばば様は幸せだったんだろうか。
孫どころか息子までも東京に行ってしまい、恨んで死んでいったんじゃないだろうか。
寂しい思いで、独り死んでいったんじゃないだろうか。

『なまんだぶつ なまんだぶつ あんがたい』

毎日朝晩おつとめを欠かさず、ことあるごとにそうお念仏されていたおばば様でした。
お寺さんにもよく通い、本当に南無阿弥陀仏と一緒に生きてきたようなおばば様でした。

そんなおばば様なのに、ほとけさんは何をしてくれたのか。
信心深く、お念仏をほんとに百万遍、億万遍唱えてきたおばば様なのに、最後は息子にも孫にもなかなか会えず、寂しい思いをして行ってしまわれた。

「お念仏を唱えたって、幸せに死ねるわけではないではないか。」

そんなことを思いながら、新幹線の外の風景がだんだん雪景色になっていくのを見つめていました。

ふるさとは大雪でした。
実家についた頃には夜も更け、激しくも静かに舞う雪が、実家の玄関を彼岸の入り口のように感じさせました。

最近はめったに寄り付かなくなってしまった実家でしたが、それでも、玄関の前に立つと、いつも強烈に「帰ってきた」という実感がこみ上げてくるものでした。
でも、その時はなぜか、実家に帰った実感がわかず、玄関の前で数分立ち尽くしてしまいました。

おばば様はいつも、私が帰るのを心待ちにしていたそうです。
そんな気持ちをわかっていながら、日々の忙しさにかまけ、いや、言い訳にして、ここ数年ほとんど帰って来なかった自分。

そんな不孝者の私でも、たまに帰ると抱き合って、涙を流して迎えてくれるおばば様でした。

「カタかったか(元気だったか)?」
-うん、カタかったよ。おばばさんこそカタかったか?

「おなか減ってないか?」
-うん、さっき駅で食べてきた。けど、おばばちゃんのあの菜っ葉の炊いたの食べたい。

「雪ひどかったやろ、はよ仏さんに手合わせて、ストーブにあたりね(暖まりなさいね)。」
-うん、うん、うん……

玄関を開けても、そんないつものやり取りは、もうありません。

むせ返るようなお香の香り。
母が何か言いながら出てきます。
雪を払い、仏間の方に向かいます。
ストーブの上でやかんの蓋がカチカチとなっています。
やつれた父の顔、
「おう」といいながら顔を上げる兄の顔、
懐かしい親戚の顔。
お仏壇の前、仏間の真ん中に、横たわるおばば様。

泣いてしまうだろうか、と思っていました。
でも、不思議と、冷静にその情景を眺めていました。
おばば様は死んだのだろうか?
そう思ってしまうくらい、死が現実的ではありませんでした。
ただ、おばば様の顔にかけられた白い布が、
「死んでいる」ということを静かに表現していました。

死は、「別れ」でしかないと思っていました。
しかし、死は「縁」の一端なのかもしれないと思いました。

おばば様の肉体が、福井の実家で過ごす最後の晩、死はまだ出来事でしかありませんでした。
そこに、亡くなったおばば様が、保冷剤に包まれて、着物を着て、布団を掛けられて、横たわっています。
父と母は、葬式に呼ぶ人のリストを作るために、古ぼけた年賀状やら台帳やらをひっくり返して叫んでいます。
兄は、香炉の前で、燃え尽きそうな線香を変えるタイミングをぼうっと待っています。
姪は、非日常が楽しいのか、でも不謹慎というのは分かっているのか、暇を持て余して、誰かかれかにまとわりつき、居場所がないのが分かると、寝てしまいました。

私は、そんな景色を、絵を描く時のように、何も考えず見つめている。

そこには、非日常という日常があるだけでした。
死は、出来事でしかないと、ぼんやりと考えていました。
仏教っていうのは、その日常を非日常として再認識させてくれるためにあるのかもしれない、とぼんやりと思っていました。

「線香は、その場の空気が日常であってはいけない、と嗅覚に訴えているのかもしれない。
燈明は、その場の風景が日常であってはいけないと、視覚に訴えているのかもしれない。
そして念仏は……、念仏というのは、聴覚にそれを訴えるのだろうか。
すべては思い込みであって、錯覚でしかなくて、暗示であって、納得するための術(すべ)なのかもしれない。」

事実、おばば様はそこに、躯として、あります。
毎日念仏を欠かさず、事あるごとに「なまんだぶつ なまんだぶつ あんがたい」と口ずさんでいたおばば様の人生が、終わった今、そこに何が残っているのでしょうか。

死は、出来事でしかない。
それが事実なんだろうと、頭が痺れたように思っていました。

(つづく)

カテゴリー: おつとめ タグ: おつとめ, おばば様, 仏教, 南無阿弥陀仏, 宗教, 念仏, 慈海, 死, 葬式

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