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ご文章

【第6回】蓮如さんのご文章をまなぶ【雪中章】

2019年2月15日 by 慈海

明日は福井県春江町針原のお寺 放光寺 で2か月ぶりの「蓮如さんのご文章をまなぶ」です。

今回は『雪中章』です。

「幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。」
(五里・十里の遠意雪道をはるばると越え、吉崎まで参詣に来られたのは、どういう心持ちでありましょうか? なんとも心もとないことであります。)

わざわざ、雪の中を必死に吉崎まで参詣に来られた方々に向かって、「いったいどんなつもりでここまで来たのか?」という厳しいお言葉ではあります。しかし、それは何よりも蓮如さんの優しさがあふれ出た問いでありました。

ほんとうの「優しさ」というのはどういことでしょうか?そして、何のために寺に参り、何のために仏法を聞くのか?

そういったことを、この『雪中章』から味わっていこうと思います。

針原地区の方だけでなく、どちらの方でもご遠慮なくいらしてくださいませ。始めていらした方には慈海から本願寺出版の「御文章 ひらがな版 - 拝読のために」を差し上げております。

◆雪中章
http://labo.wikidharma.org/…/%E5%BE%A1%E6%96%87%E7%AB%A0_(%…

◆御文章 ひらがな版 - 拝読のために
https://hongwanji-shuppan.com/item/detail.html…

◆放光寺
https://goo.gl/maps/HX2x8ArNWXF2

なんまんだぶ6回)チラシ

カテゴリー: お知らせ タグ: ご文章, 御文章, 放光寺, 放光寺サロン, 蓮如さん, 蓮如さんのご文章をまなぶ, 雪中章

「おそろしい人」「かわいらしい人」

2014年11月30日 by 慈海

こういう話を聞いた。

あるとき、お説教でお坊さんが『入正定聚(にゅう・しょうじょうじゅ)』の話をされたそうだ。
それをお聴聞されたおばあさんが、お説教のあと、そのお坊さんに言うのである。
「はぁ、ごえんさん(お坊さんの意)、こりゃぁまぁ、あれやのぅ。大豆が豆腐になるちゅうはなしですわのぉ。」
それを聞いたお坊さんは、このおばあさんが何をおっしゃっているのかさっぱりわからなかったそうである。

また、こういう話も聞いた。

ある、布教大会(リレー形式で布教使のお坊さんがお説教をする大会)でのこと、ひと通り布教使の方々のお説教が終わり、では何か質問など無いでしょうかとなった時、お聴聞されてたおる爺さんが
「この先生と、この先生が、さっき『お浄土にかえる』とおっしゃってらしたけど、御開山聖人はどこでそんなことおっしゃってるんですかの?」
と質問されたそうだ。

さらに、こういう話も聞いた。

あるとき、お坊さんがお説教の場で、自己紹介から、世間話になり、本題の仏法の話になったところで「~と、私は思うんです。」とおっしゃったそうだ。
その途端、お聴聞されてた方々の一人が
「ごえんさん!わたしらは仏さんの話を聞きに来たんや。あんたの話やらあんたの考えを聞きに来たんちゃう!」
と、そのお坊さんを講台から引きずり下ろしてしまったそうだ。

もうひとつ最後に、父から聞いたこんな話も思い出した。

慈海の父がまだ若かった頃、使いで親戚の家に行ったそうだ。
玄関を開けようとすると、台所の方から大声で怒鳴り合うような声が聞こえる。その鬼気迫る様子に、玄関を開けるのが怖くなり、そのまま踵を返して家に帰って、母親にそのことを伝えたそうだ。
すると、母親(慈海からすれば祖母)は
「あぁ、それは後生話してるんや。」
と、別に驚くことでもないという返事が返ってきて、父は、変なこともあるもんやなぁと思ったそうだ。

浄土真宗の門徒衆には「おそろしい」人が多い。
ここで言う「おそろしい」人というのは、決して暴れて人を殺しかねないとかいうような「おそろしさ」ではない。見据えている世界が違うのだ。

その反対に、越前のこの辺りでは、時々「かわいらしい」という言葉が、侮辱の意味を含んで言われることがある。
世間知らず、モノ知らず、という意味合いが含まれているからだ。

いつもニコニコと、「かわいらしい」顔をして、実は「おそろしい」人というのはよくいる。

蓮如さんはこう聞かせてくださった。

たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。

有名な『八万の法蔵』のお文(ご文章)の中の一節だ。

何百何千とお聴聞を繰り返してきた門徒の爺様や婆様が、今日も痛い足を引きずってお寺に参る。
それを年寄りの遊び場所と笑う人もいる。
「いっちょジジババ泣かしてくるか」と演芸を披露しに講台に上がる人もいる。
何もわかってないもんに、丁寧にわかりやすくこの高尚な教えを説いてやろうという人もいる。

爺様婆様は、今日もニコニコと、いい話やった、いいごえんさんやと、皺々の手を合わせて、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と、癖になったお念仏をつぶやく。

浄土真宗だけではなかろうか。
まるで禅宗の高僧でも舌を巻くような、こんな「おそろしい」人がゴロゴロといるのは。それも、達観した様子もなく、俗の姿で、まるで凡夫そのまんまで。

今の話ではないのだ。
後生の話である。

ここ数年や数十年の話ではないのだ。
今生のあと、どうなるかという話である。

「あんた、覚悟はいいか?」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: お文, ご文章, 八万の法蔵章, 後生話, 正定聚, 還浄

綺語が出る

2014年11月13日 by 慈海

ご法話を取り次ぐ際、予定していた話とは、全く違う内容になることがよくあります。
いやむしろ、そういう時のほうが多い気がしますし、そういった時の方が、お聴聞されてる方のお念仏の声が大きく聞こえる気がします。

今日は、春江町順勝寺様で勤められました、仏教婦人会報恩講で、一座のお取次ぎのご縁を賜りました。
事前に御讃題(ごさんだい:法話のテーマとなる聖典からの言葉)もキッチリ決めて、頭のなかで話題の時間配分まで計算して臨んだのですが、口から出てきたのは、全く予定とは異なる内容になっていました。

後になって思えば、今、慈海自身に一番聞かせたい話を取り次いだのだろうなぁと、思ったりもします。

最近、ご文章を拝読している時に、心をこめて、感情を込めて、拝読している自分に、「あぁ、これは違う」と、ふと思い至りました。反省しました。
ご文章が持つ「言葉の力」を、慈海の情で、邪魔をしていたのです。
それは、決して袈裟をかけているものが、してはいけないこと。

お取次ぎもそうでした。

常に、「聴かせるつもりはやめなさい。」とたしなめられているにもかかわらず、「教化者意識」は消えさることはありません。消しても、潰しても、振り払っても、この「承認されたい」欲求が、慈海の心の奥底から、ジッと目を見開いて、休むことはありません。

以前、師と話していて、ああこの欲求の底に有るのが、「無明」ということなのだなぁと聞かされました。

慈海の場合は、その無明から、綺語が出てくるようです。
それが、妄語になり、両舌になり、悪口をいだしていくようです。

一生、この綺語の出る身と、付き合っていかなければならないのでしょうか。

浅ましい、そうつぶやく言葉と合わせて、なんまんだぶ と耳に聞こえてくださるのです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: お取次ぎ, ご文章, 教化者意識, 無明, 綺語

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