毎朝ご文章を拝読していると

毎朝ご文章を拝読していると、その日その日のご文章が、その日その日の私のすがたに合わせて蓮如上人がお説教をしてくださっているように思える。

“ちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもつてわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。そのゆゑは、「すでに牛を盗みたる人とはいはるとも、当流のすがたをみゆべからず」(改邪鈔・三意)とこそ仰せられたり。この御ことばをもつてよくよくこころうべし。”

二帖十三通のご文章を拝読する。お勤めの後、上人のお顔を見るのが恥ずかしなってお御堂をあとにする。「たふとむ人より、たふとがる人ぞたふとかりける」と上人が昔仰せになられたことを懐かしく思い出し、お勤めのあとお聖教を開いて、しばらくお聖教から目が離せなくなる。

「ありがたいもの」になるために仏さまの前に座るのではないし、お勤めをしても言葉を知ってもどれだけお念仏をしてもそのようなものに成れるわけではない。

大悲どころか、中悲も小悲も持ち合わせていない、自己顕示と自己憐憫の慢心で出来上がっている私がいくら着飾ってもいくら装っても、滑稽に見えるだけでそれを蓮如上人は静かに窘められる。

昨日夕暮れの境内に出て、この景色をしばらくゆっくり眺めていると、この場所でいずれ朽ちていくのかもとあらためて思い、最高だなと思った。

今朝のお勤めの後、穏やかに晴れた境内を眺めながら、また最高だなと思う。居場所も落ち着き場所も持ち得ない慈海が、ここであれば右往左往したままでいられる。

なんまんだぶ