やかましいったらありゃしない

福井別院の晨朝後、吉崎に帰山し二度目の晨朝(というよりもう日中の時間でしたけど)のお勤めをしていると、境内を歩かれる方の足音がする。日曜日だから、観光の方も多くいらっしゃる。

お御堂に入ってこられる方の気配を背中に感じるけれども、そのままお勤めに集中していると、ひとり、二人、三人と次々に人が入ってこられるように感じて、そのうち、まるで満堂に人が集まり、座り、ご一緒にお勤めされているような息づかいにつつまれる。

いや、実際はそんなことないのだけど、お御堂でお勤めをしているとそんな気がして仕方がない時がある。きっと、これまでこの吉崎を支えてこられ、既にお浄土に移住していかれた先人方が集まってくださっているのかもしれないなぁ、と思って、ついお勤めの声も大きくなる。

この大きな伽藍に一人で住んでいて寂しくないかとよく尋ねられるけれども、これまで寂しいと感じたことは一度もない。無数の方々のお念仏の声がしみ込んでいるこの場所に、伽藍に、寂しさといったセンチメンタルな感情が潜む隙間は一分もない。なによりも、蓮如上人は如来様のお手替わりとして今でも獅子吼のように法を演舌され続けていらっしゃる。(やかましいったらありゃしない)

「真宗門徒を転宗させようと思へば、まず御文章を棄てさせねばならぬ」と、ある方が仰ったということが杉紫郎和上の『御文章講話』の中にある。

ほんの数年前までは真宗門徒の定義としては、毎朝夕に正信偈のお勤めをし、御文章を欠かさず拝読している集団と言われることもあったそうだ。

だが、現在では朝夕の勤行どころか御文章を眼に当てたことも、聞いたこともない、かろうじて『聖人一流章』を法座で耳にしたことがあるか、文化的な知識として『白骨章』の「朝には紅顔あって夕べには白骨となれる身なり」の文章を知っているくらいの人の方が多いのではないだろうか。

杉紫郎和上の『御文章講話』中にある文章はさらに厳しく、「小恩には時に感ずるも、大恩は却って忘れがちである」とある。毎朝夕『御文章』を拝読して殆ど暗記するまでであっても、この御恩を感じていないものが多いのではないかと文章が続いている。

ということはつまり、御文章を拝読する事がなくなった現代においては、大恩どころか小恩さえも知らない時代になったということかもしれない。

同じく板敷きの場所に座り、ひざを突き合わせてこの私の後生の一大事のご心配くださり、モノゴトを知らぬ私のために、百のことを十に、十のことを一に選りつづめ、どうにか御開山聖人御一流の御勧化を何とかこの私に知らしめんとしたためてくださった『御文章』をないがしろにし、よりどころの道しるべを見失った慈海がやっていることといえば、御開山聖人(宗祖親鸞聖人)のお示しくださった生死を超えた教えを、あまりにも卑近にもてあそび、我が往生極楽の道を手あかにまみれた俗語でごまかそうとしてばかりなのではないだろかと、不安になることがあるけれども、それはまた別の話。

なんまんだぶ