忘れていくということは、どういうことなのだろうか

母がボケていく。まだ70代前半であるけれども、刻々と痴呆は進行して、すでに忘れたことさえも忘れてしまうようになってきた。

何かを見て、また何かを聞いて感じた、恐ろしいとか楽しいとか悲しいとかそういったことも、口からそれを言葉にした瞬間からすぐに忘れていく。いや、もしかすると、言葉にする前の、言葉になる前のその感情さえも、口から出す前に忘れていってしまっているのかもしれない。

そして、嬉しいか、嫌か、といったモヤモヤとした、なんとなく微かに残ったそれら感情の残骸だけが、まるで澱のように心の壁にこびり着いているかのように、それら感情の残骸に触発され、何に腹を立てたのか、何に喜んだのかも忘れたまま、また得体の知れない感情を、繰り返し繰り返し繰り返し作り出して、漠然とした情動に振り回され続けている。

しかし、そのことさえも、また忘れていくのだ。

母が感じた感情は、一体どこに行ってしまうのだろう。母が感じ、思い、考えた「それら」は、母の記憶とともに、消えて行ってしまうのだろうか。なかったことになってしまうのだろうか。

私はどうだろうか。いずれ、母と同じように忘れていくようになるのだろうか。いやもしかすると、もうすでに、忘れたことさえも忘れてしまっていることが、無数にあるのかもしれない。そう思うと、いいようのない恐怖を感じた。母は、常にこの恐怖と戦っているのか……。

そもそも、感情も思考も、全く同じカタチのままでこの頭の中、胸のうちにずっととどまっているわけではない。忘れてしまう、消えてしまう以前に、それら感情も思考も、刻々と刻々と他の思考や感情、そして無数にこの体の中に刻まれていく刺激によって、影響され、化学変化を起こし、分化し、統合し、再結合し、変質し、構築され、また分断されといったように、そのカタチを変え続けている。

いや、もっと言えば、その、今私が考えたこと、感じたことさえも、何かの刺激によって、無数の刺激によって集められ起きてきただけのものであったのだろう。一つの感情、不変の思考という、固定化された、変化も変質もしないそういったものは、なにもないのだろう。

忘れていくということは、どういうことなのだろうか。

それらの無数の関係性の循環が切れてしまうということなのだろうか。すべての関係性の中で紡がれてきた、まるで糸のようなその連続性が、ぷつりとそこで切れてしまうようなことなのであろうか。切れてしまった瞬間、すべての関係性はそこで消滅し、全てなかったことになってしまうのであろうか。

この宇宙の理が、この世界というものが、もしそうなのだとしたら、そんな空虚な世界を私が生きていて、生きていると思い込んで、いるのだとしたら、それは恐怖である。空しさという恐怖。これほど恐ろしいものはないかもしれない。もし地獄というあらゆる肉体的精神的な責め苦を無尽蔵に味わわされるようなそういうところがあるのだとしても、そんな地獄よりも恐ろしいことが、この「空しさ」という恐怖かもしれない。痛みも苦しみも何もかもが、無意味で、無意味という意味も無い、そしてそれが有るとも無いともいうことも無い世界に、この私は佇んでいるのだろうか。

だから、必死で自分の思考を言葉にし、感情を誰かに伝え、私はここにいる、私はこんな存在だ、私を見てくれ、私を知ってくれ、今この瞬間の私を世界中が知るべきであると、もがき続けている。誰かに知られることが、誰かに認められることが、唯一その「空しさ」という恐怖から逃れるすべであるかのように。しかし、それさえも、空しさの世界のなかでのことであるのだ。誰かに知られたとしても、その知られたこと、思われたことさえも、また空しいものでしかない。

消えて行くこの思考や感情、この「私」と思うアイデンティティは、どこに向かっているのだろうか。私が「私」と思うこの私は、一体どこにいて、どこに向かっているのだろうか。

これを、仏教では「無明」というそうである。

「なんか、私もうアカンのやわ……。なんかもう、何もわからんなっていく」
この無明に対する絶望を、母は漠然と言葉にする。

「お母さん。忘れてもいいんやざ。アカンなってもいいんや。私もきっといずれそうなるかもしれんけど、それまでは私はお母さんのことは忘れんし。そしてもし、私がお母さんのこと忘れた頃には、お母さん、もう先に仏さんになってるやろ。仏さんは忘れんからなぁ。絶対に忘れん。そんな仏さんになったお母さんが、この私のことを忘れんといてくれんから、今は忘れていいんやないか。」

しかし、この空しさに絶望しながら、その空しさを否定せず、空しいものともしない世界があるのだろう。無明を無明のままに照らすこの光は、一体何なのだろうか。

なんまんだぶ

 

# https://kuz.tumblr.com/day/2017/10/21 より転載

自由な時間

「生活の中での仏法ではない。仏法の中での生活です。」
以前、福井東別院さんでの暁天講座にて池田勇諦師はそうお話しされたそうである。

かつて蓮如上人も

その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

と仰せられたそうだ。その逸話は蓮如上人御一代聞書にある。ある方が蓮如上人に、
「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」
と申しあげたところ、蓮如上人はその方に、
「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」
と仰せになったという。

浄土真宗の門徒にとって、日々の暮らしの中での基点ともなるべき”たしなみ”といえば、毎日の日常での勤行であろう。朝起きて、顔を洗い寝間着を着替え、身支度を整え、仏間に向かい、お仏壇の扉を開け、仏様の周りに埃や汚れを見つけたらそれを掃除し清め、仏花の水を替え、御燈明を灯し、香を焚き、炊き立ての釜から湯気の昇るご飯を仏飯器によそい、自身の息がそのお仏飯にかからぬよううやうやしく頭上に掲げながら、そろりそろりと仏様の前にお供えしたら、背筋をのばして仏様の前に座るのだ。「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ … 」とお念仏をつぶやいて、仏様のお姿を仰ぐと「チーン チーン」と”キン”を二度鳴らして「きーみょーうむーりょーうじゅにょらいー ……」と正信偈のお勤めが始まる。これが、御開山聖人のお示しをいただく浄土真宗の門徒の一日の始まりではある。

この、浄土真宗門徒の日常勤行のカタチを始められたのが蓮如上人であった。文明五年(西暦1473年)にここ吉崎の地で、御開山聖人の顕された『正信念仏偈』そして『ご和讃』をわれらの日常の勤行『正信偈和讃』として定められたのであった。それまでは、浄土教の日常勤行といえば、僧侶による六時礼讃(一日に六度、それぞれの時間にそれぞれの礼讃という勤行。善導大師様の作「往生礼讃」)をお勤めするのが一般的であった。しかし、蓮如上人がこの『正信偈和讃』をわれら門徒の勤行として定めてくださったことで、われらの生活は「生活の中でたまに仏法を戴く」日常から「仏法の中での生活」に大きく転回したのであった。

朝起きて仏様の前に座り、仏徳讃嘆のお勤めをして今日一日が始まり、夕べには今日の一日もまた仏法の中での生活を送らせてくださったと、仏様のお徳を仰ぎながらお勤めをして床に入るのである。仏法から始まり、仏法に終わる日暮らしが、浄土真宗門徒の生活であった。

とはいえ、現代は言葉の通り”忙しい時代”である。毎朝毎晩、たった数十分であったとしても、なかなかこの「日常の勤行」をたしなむ余裕を持つことさえもできずにいるのが、この慈海である。テレビをだらだらとみる暇も、スマホを眺めて電脳世界に興じる暇も、酒を飲んで世間の話に花を咲かせる暇も、ぜい肉に変えるだけの飽食にかける暇も、枕を引き寄せて惰眠をむさぼる暇もあるけれども、ついつい「後生の一大事」に心をかける時間を惜しみ、メンドクサイだのジカンガナイだのと言い訳をして、お勤めがおろそかになるどころか、仏様の前に座ることからさえも逃げようとする。「簡単に手を合わせておけばいいか」「布団の中でお念仏しても同じこと」とうそぶいているうちに、怠惰はより一層怠惰を助長させ、そのうち手を合わせることも、挙句はお念仏を申すことさえも忘れていくのである。いずれは気が付けば、「生活の中でまれに仏法を思い出す」いや、「生活の中で仏法を戴くことなど無い」一生となりかねない。それがこの私というものである。そんな「私」に気づいた時、以前交わしたとある方の言葉を思い出す。

ほぼ毎朝、福井別院での晨朝勤行に顔を出されるその方に、ある時慈海はたずねた。
「何が**さんをそうさせるのですか?どうしてそこまで熱心にお参りすることができるんですか?」
慈海の祖母も、毎朝毎晩お勤めを欠かすことがなかった。口癖のように「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい」と、ことあるごとにお念仏を申された祖母であった。慈海がこの”念仏”というものに興味を示したのは、何をして祖母にそうさせたのか、何が祖母にお念仏をさせしめたのか、ということを思ったことがきっかけであった。だから、その方のすがたに祖母のすがたを重ねたのかもしれない。祖母に聞くことが叶わなかったその問いを、その方に投げかけたのかもしれない。

「何がそうさせるんですか?」
慈海のその問いを聞くと、それまでにこやかに微笑んでられたその方の表情が一変した。そして、キッと慈海の目を見据え、震えるような声でぽつりとこうおっしゃった。
「だって、ご本尊様が待ってなさるやないか……」
その方の目には涙が浮かんでいらっしゃった。慈海の歳の倍近く生きられた方がこんな若造の問いに涙を流してそう答えられたのだ。慈海はハッとして、何も返す言葉が出なかった。その真剣な表情と、ぽつりとおっしゃったその言葉の気迫に圧倒されたのか、気が付けば慈海の目にも熱いものがこみ上げていた。

夜更かししてしまった翌朝など、布団から出るのもおっくうで、おあさじが面倒と思う。体をシッカリ休めるのも大事などと言い訳をして温い布団の中により深く潜り込もうとする私がいる。そんな時「ご本尊様が待ってなさる」の言葉が頭をよぎる。唸りながら、うだうだしながら、ゴロゴロとしながら、ご本尊のお姿が頭をよぎる。そして結局、面倒と思う私を後ろめたく引きずりながら、渋々と布団から這い出るのだ。そして、ご本尊の前に座り「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ … 」とお念仏をつぶやき、仏様のお姿を仰いでいつも思うのだ。「あぁ、今日もここに座らせてもろうた。慈海よ、よかったなぁ……」

このお勤めの時間ほど、自由な時間はない。面倒と思いながらもいざ座れば、この自由な気持ちに心が休まるのである。お勤めをすることさえも面倒くさがり、世事にかまけ、仏に背を向け、仏を裏切り、仏を忘れていこうとするこの慈海の日常ではあるけれども、それでも、このお勤めをしている間だけは、少なくとも慈海は仏様の前に座っているのだ。この慈海の口から出る言葉は、自分可愛さの言葉しか出てこない。自分を飾り、自分を大きく見せ、自分を慰めるような言葉しか出てこない。それでも、少なくともこのお勤めの間だけは、御開山聖人のお示しがこの口から聞こえてくるのだ。驚くことに、怠惰なこの私から、である。心の底から自慢できることも、誇れることも、褒められることもなにもない、真実も知らず、真実を知ろうともせず、自らの虚言に惑い、迷ってばかりいるこの私が、真実のひとかけらもないこの私が、決して「善人」とは限りなく程遠い私が、少なくともこの勤行の間だけは「善人」でいられるように思えるのだ。慈海が、私から解放されるひと時である。

朝のお勤めが終わると、今日一日の始まりでありながら、なんだかいつも、その日の仕事が済んだような気持になる。今日もまた、この私を、法の水にひたしてくださった。そして、夕べのお勤めが終わるとまた、今日一日この私が法の水にひたされていたことを思い出しながら、今日という私の一日を終えていくのである。

仏法の中での生活は、自由に生きることではない。心安らぐ生活でもなければ、自身の罪悪も煩悩も昇華されるような生活でもない。決して善人らしい生活でもなく、決して愚かさから逃れることのできる生活でもない。お勤めをすることが偉いわけでもなければ、精進された生活となるわけでもない。この私は、慈海のままである。何も変わることはない。一瞬たりともこの慈海が私ではなくなることもない。微塵も褒められ、讃えられるような生活でもない。けれども、そうであることさえも忘れてしまう私であるから、せめて、せめて、一日の始まりと終わりくらいは、自由な時間から始めさせてやってもよいのではないかと思うのだ。だって、蓮如さんがせっかくこの慈海に、そういう日常のカタチをこしらえてくださったのであるから。

なんまんだぶ

おすそわけしたいの。

吉崎別院での晨朝勤行(おあさじ、朝のお勤め)は、いい。

蓮如上人のご旧跡地、つまりお形見の場所で、蓮如上人のお形見の御真影の前で、蓮如上人のお形見のご法話であるご文章を聴き戴いて、今日という一日が始まる。

高い壇上から述べられる講釈を聞くのではなく、位の高い派手な衣を着たやんごとなき僧侶の読誦する経をいただくのではなく、同じ畳の上で、平座で、ご開山聖人のお示しである正信偈のお勤めを、蓮如さんと一緒に、僧俗ともに戴くのだ。

そして、そういう勤行の形が始まったのも、この吉崎からである。蓮如上人が正信偈そしてお念仏ご和讃を、われらが”日常”の勤行として、定めてくださった。

つまりは、吉崎でのおあさじというのは、まさにわれらが日常のお勤めのルーツともいえるかもしれない。

各々が、各々の心を持ち寄って、各々の口から、同じ時に、同じ場所で、同じお勤め、仏徳讃嘆ができるようになったのは、まさに蓮如上人の最大のご功績だ。

吉崎のおあさじは、ほんとうに気持ちがいい。

慈海はこの吉崎別院でおあさじをする日々を、誇りに思っている。この、無数の先人方の、念仏者方の、御恩報謝のカタチの上で、蓮如さんと一緒に、御恩報謝のなかでの日常を始めることができる。こんなにかたじけなく、そして誇りに思えることはないだろう。

とあるおばあさんが、自宅のお仏壇のお磨きをあえて若い人に手伝ってもらうのだという。それは、いわく
「だって、お仏壇のお磨きすると、とっても気持ちいいもんね。だから、その気持をおすそ分けしたいの」
だそうだ。

慈海もね、この吉崎でのお勤めのありがたさ、もったいなさを、ぜひ多くの方におすそ分けしたいの。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

忍びの末裔と、禅問答と、秋の味覚と、なんまんだぶ

「梨は?」と唐突に尋ねられ思わず「梨が?」
とわけのわからない返事をしてしまった。

今日の午後買い物のため車に乗り込んだら給油ランプが点灯していた。
ガソリン入れなきゃと、近くのガソリンスタンドに寄ると、出てきたのはいつものおじちゃんではなく奥さんらしい方であった。そういえばたしかおじさんはこの時間帯は昼寝の時間だったけかと思いながら、おばさんのナビに従って車を止め、給油カバーを開けながら「レギュラー満タンでお願いします」と告げた。
このガソリンスタンドには猫が沢山住み着いている。ほとんどが捨て猫らしい。「捨てたら面倒を見てくれると思われてか、時折隣の空き地に捨てて行かれてしまうんだよね」と以前おじさんがおっしゃっていた。

「給油の間、猫、見に行っていいですか?」とおばさんに声をかけて車の外に出ると、気配を察した猫達は物陰に隠れていった。何度も挨拶をしているのに、未だにどの猫も慈海の半径5メートル以内には近寄ってくれない。しゃがみこんで遠くから猫に話しかけていると、おばさんがいつの間にか慈海の後ろに立っていた。

「あの子は触らしてくれないのよ。あ、あそこの影にいる子は愛嬌がいいから触らせてくれるかも」
でかい図体のくせに子供言葉、まさしく猫なで声で、話しかけているのを聞かれてしまったのが少し恥ずかしくなりながらも、その愛嬌がいいという猫のほうに向かって手を伸ばしてみたけれども、白と茶色の縞模様のその猫は、こちらをちらりと見ただけで、興味なさそうに寝転がって毛づくろいを始めてしまった。餌でも持ってきたら振り向いてくれるのだろうか?いや、なんか流石にそこまですると”あざとい”だろうか。

諦めて自分の車の方をみると、もう満タンになったらしく、いつの間におばさんは給油ノズルをしまっているところであった。このおばさんは、なんだろう、気配を感じさせない。もしかすると”くノ一”の末裔かもしれない。歴史の闇に消えていった蓮如さんをお守りする忍びの集団が、もしかするといたのかもしれない。そんな妄想をはたらかせながらおばさんに「おいくらですか?」と尋ね、つげられた金額を財布から出していると、「どこの坊さん?」と、忍びの血を引いているかもしれないそのおばさんに尋ねられた。

「どこって、ここです。」
「ここって、どこの?」
「吉崎の西別院です。」
「西別院ってどこ?」
「西別院って、そこのですよ。」
「そこってあの駐車場のすぐのとこの?」
「はい。そこの別院に住み込んでるんです。」
「久しぶりに聞いたわ。」
「別院を、ですか?」
「住み込みって言葉。」

噛み合わないようで噛み合っているようで、やっぱり噛み合ってない気がするそんな言葉をかわしながらガソリン代をおばさんの手に渡しつつ慈海は考える。
もしかして、これは何かの符丁なのだろうか。さり気なく合言葉を求められているのかもしれない。もしくは何か怪しまれて、探られているのだろうか。返しの言葉如何によっては隠し持っていた手裏剣が慈海の眉間に飛んで来るのだろうか。

そんな妄想をしていると、そんな心の中を探るような眼差しで慈海の目をじっと見つめて

「梨は?」

と尋ねられたのであった。

もしかして、妄想なんかではなく本当に合言葉を言われているのだろうか?
ドキリとしながらなんて返事をしていいかわからず、つい「梨が?」とつい反射的に返してしまった。
しまった……
さっき梨を食べたせいで、果物の梨のことかとてっきり早とちりしてしまった。けれども「無しは?」とおっしゃったのかもしれない。これはもしかすると、禅問答的な問いだろうか?こいつは本当に坊主かと探られたのではないだろうか?いや、だとしてもなんて答えれば正解になるのだ。なにが無いことなのだ。信心が無いということか。それとも、無疑心ということか。ああ、いやまて、慈海には結局ほんとうの慚愧が無いとおっしゃりたかったのか!

「ちょっとまってね。傷もんやけどようけある(沢山ある)から…」
慌ただしい脳内に反して、キョトンとした表情の顔のままの慈海に背を向け、くノ一は事務所に戻っていく。

”傷物”とはなんだ。たくさん?慈海にもたしかに脛に傷は少しくらいはあるけれども、所詮あまちゃんで、人生経験だってそんな豊富でもない。え?で?何しに事務所に戻られたんだ?懐の手裏剣じゃなく、長ドスでも持ってくるのだろうか。ああ、信心得たり顔をした慈海に、ぞろりと抜いた長どすの切っ先を突きつけて「あんちゃん、覚悟はええか?」とでも訊かれるのか?
ああ、こたえてやるとも。覚悟なんてこれっぽっちもないさ!小便チビリながら逃げ回ってやる!

「傷もんやけど、たくさんもらったから持っていきね。梨食べるやろ?」
ガサガサと音を立てながら戻ってこられたそのおばさんの手には膨らんだビニール袋があった。覗き込むと沢山の梨が詰まっている。

あああああ、なんてことだ!

本当に”梨”であった。
果物の、慈海の大好物の、みずみずしてくて爽やかで秋の味覚の五本指に入る果物。
これは、梨だ!

「え?えぇ!?下さるんですか?」
「いっぱいもらったさけ(沢山もらったから)持って行きね。傷もんやけど。」
「ああああああありがとうございます!」

手を合わせると、ニコニコ顔で手を合わせ返してくださった。

助手席にそっとその膨れたビニール袋を置いて、もういちど「ありがとー!」と叫びながら車を出す。
後ろから「ありがとうございましたー」とおばさんの声が聞こえてきた。

メーターが満タンを指している車を走らせながら、疑問がむくむくと頭のなかに湧いてきた。
なぜおばさんは急に梨を下さろうとおもったのだろう?

以前にも一度だけガソリンを入れたときに対応してくださったことはあったけれども、たいして会話もしたわけでもなかった。そもそも慈海がどこの誰かさえも、もちろん慈海の名前さえも知らなかったであろう。まさかお客さん全てに梨を配っているわけでもないはずだ。慈海が、坊主の姿(作務衣を着ていたし、昨晩頭も剃ったばかりであった)をしているから?ただそれだけ?別院に住み込みと話したから?

布施ということが頭に浮かびながら、日頃の慈海のだらしないところを思い出す。
シートを少し背を伸ばして座り直し、本当の布施に応えきれるものになることは慈海には永遠にないのだろなと、口に仏名をつぶやくのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……

 

#今日の出来事をもとにだいぶ創作が入ってます。

如来様の“ちょっぺのこ”(福井弁:溺愛するほどかわいくてしょうがない子という意味)

今日は祖母の月命日。

うちのおばばさまは、大正生まれということもあってか、それはもう口が悪くて、性格もキツかった。しかし、口もたつけどそれに行動が伴う人であった。器用になんでもこなして、ボーッとしてることがなかった。だから、キツイこと言われても誰も何も言い返せなくて、より一層めんどくさいばあさんだったかもしれない。

慈海が小学生の頃、膝にイボがたくさん出来てしまったので、祖母に連れられて皮膚科の病院に行き、それらのイボを取ってもらう処置を受けた。処置室に通されると、お医者さんがアルミの水筒のようなものを出してきて、その中に長いピンセットを突っ込むと、モクモクと煙を吹き出す綿だったか何かを取り出し、慈海の膝のイボにそれを押し当てた。たしかドライアイスでイボを焼きつぶす処置だったように思う。ドライアイスとは言いながらも、膝に当てられたそれはとても熱く感じて、膝からモクモクと立ち上るその煙の様子と相まってとても恐ろしかったことを覚えている。熱いのと怖いのとで泣き叫びそうになったけれども、「男の子だからがまんしてねー」という優しく声をかけてくださる看護婦さんに涙を見せるのが恥ずかしくて「泣かない!僕男の子だから泣かない!」と、心の中で唱えて必死で耐えていた。

涙をこらえながら、歯を食いしばりながら、ふと付き添いで私のそばに立っている祖母の表情を見る。いつもいかめしい表情をしている祖母であったが、その時見たその祖母の表情は、慈海と同じように歯を食いしばって、眼鏡の奥にうっすらと涙が滲んでいた。

そんな祖母の表情を見て「なんでおばば様が泣いてんだよ」と、ちょっとだけ可笑しくなって、そしてなんだか痛みと恐怖が和らいだ。

如来さまの慈悲というのは、こういうことなのかもしれない。

金子みすずさんの有名な詩にこんなのがある。

わたしがさびしいときに、
よその人は知らないの。

わたしがさびしいときに、
お友だちはわらうの。

わたしがさびしいときに、
お母さんはやさしいの。

わたしがさびしいときに、
ほとけさまはさびしいの。

慈海が苦しかった時、ほとけさまも同じように苦しかった。
これを、「同悲」というそうである。

慈悲とは、ポワンとして暖かいものと表現されるけど、慈海はそんな曖昧な慈悲などいらない。しかし、仏さまの慈悲とは、今この慈海のリアリティそのままなんだろう。慈海が歯を食いしばっているそのままが、如来さまの慈悲に包まれている姿だ。

慈海は如来様のひとり子と聞く。

なんまんだぶ

# 過去のFacebook 投稿記事をもとに加筆修正しました)

9月になりました。今後の漠然とした予定です。

9月になりました。

先月発行しました聞見会新聞七号の発送が遅れておりますが、もうしばらくしたら発送作業に入りますので、おまたせして申し訳ありませんがどうか「あいかわらず慈海はまったくしょうがないなぁ」と、どうか気長に生暖かいお気持ちでお待ちください。なお、今回ご送付する際に、簡単なアンケートをお願いする予定です。アンケートが記載されたハガキを同封しますので、ご返送くださいますとうれしいです。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、9月に入って急に涼しくなってきましたので、youtubeで放送しているシリーズ「御文章どうでしょう?」の続きを近々また放送する予定です。「聖人一流章」の最初しかまだ進んでいないので、いよいよ「信心正因称名報恩」というご開山聖人ご一流のお勧めの肝要についてお話していく予定です。なかなか勉強不足な慈海がどこまでお話できるか不安ではありますが、どうぞご一緒にこの「後生の一大事」をともに聞かせていただきましょう!

また、近頃「仏教に触れたい・学びたい」とおっしゃる方がチラホラと吉崎を訪ねられる方がいらっしゃるようになりました。個人的にお話しておりますが、公開的にそういった集まりの機会を設けてもいいかなと考えています。つまり、休止している「聞見会念仏会(もんけんかいねんぶつえ)」のような集まりの復活です。とはいえ、吉崎は県境で交通のアクセスも悪く、気軽にふらっと行くにはちょっとハードルが高いという声もよくいただきます。そのへんをどうやってクリアしていこうか、ちょっと頭を抱えていますので、もしご意見などありましたらぜひこちらのコメント欄にご意見書いてくださりますと嬉しいです。(単にそういった会が開かれるなら参加したい!というだけのご意見でも励みになりますからぜひぜひどうぞ!)

季節の変わり目です。今年の夏の疲れが一気に体に出てくる時期でもあります。かく言う慈海も秋の花粉症も相まってちょっと体調崩し気味です。そのお体、如来様の御恩賜る大切な「法の器(うつわ)」ですから、どうぞどうぞお大切に。そしてこれからもお念仏いただく中での生活を!

なんまんだぶ

これから静かな秋そして厳しい冬の準備に入っていきます

報恩講も終わり、来年春の御忌法要まで吉崎別院では大きな法要もなく、これから静かな秋そして厳しい冬の準備に入っていきます。

おあさじ前の掃除ではちらほらと蝉たちの死骸を見つけるようになりました。

読経の声に反応してか、お勤めを始めると一斉に境内の蝉たちがにぎやかになりました。彼らにも無常を知るすべがあったのでしょうか。ただの恋の叫びには聞こえず、お勤めの声が少し大きくなります。

「それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。」

今朝の御文章での蓮如上人のお示しではございました。(五帖十三通)

南無とたのませしめ、阿弥陀仏と大悲を味あわせしむ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

吉崎別院報恩講二日目がおわってぐったり

報恩講二日目も終わってぐったり。明日の午前中で終わりです。

一番汗かいてくださってる調理場の方々が、せっかく綺麗に荘厳されて、お仏華も豪華な本堂で、報恩講のお勤めもお聴聞もできないのが申し訳なくて、やっと落ち着いた夕方、日没勤行かねて本堂にお誘いしてお勤め、そして「法話」とはいかないけど短いお話をしました。

ご本山を破却され命狙われながら転々とされた蓮如さんの悲願であったこの「報恩講」の法要。 それはなぜかと言えば、ただただ、この我の「安心(あんじん)」のためでした。

蓮如さんのようにはいかんけど、せめ一人でも多くの方とご一緒に「安心して不安を生かさせてくださる」このお念仏をいただきたいです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

日常の中の、非日常という日常

吉崎での生活が「日常」と思わなくなるくらいに、慈海の日常となっていたようだ。

先週末、仏教婦人会の方々が本願寺吉崎別院での清掃奉仕にいらしてくださった。おかげさまで境内どこもピカピカになり、今朝の朝掃除がとても楽であった。

朝起きて、掃除をして、晨朝勤行(じんじょうごんぎょう、朝のお勤め)の準備をする。炭をコンロにかけ、火をおこしてお御堂の香炉でお参りされた方がお焼香できるようにする。少し汗を拭いて、着替え、勤行。お勤めが終わったら、ひとり朝ごはんをいただく。一人だから簡単な食事だ。

なんとなく、まだこの「お寺ぐらし」の生活に慣れていない気分もあるのだけれども、この”ぐうたら”な慈海が誰かにお尻を叩かれなくても一人で起きて、自然と掃除に体が動く。

今朝は、掃除をしながらたくさん違和感を感じた。
ホースの片付け方、雑巾の場所、ちょっとしたものたちの風景が、いつもの景色と少しづつ違っている。そうか、仏教婦人会の方々が掃除してくださったからだと、改めてそのことに気づいて新鮮な気持ちになる。

見慣れているはずのいつもの景色が、ほんの少し変わるだけで新鮮な気持ちになることがある。
日常の中に、また別の日常が、非日常的に立ち現れて、またそれが日常の景色となっていく。

お念仏の話を聞くと、そんな気持ちになる。

この口から 「なんまんだぶ」と聞こえる風景は、非日常的なことかもしれないけれども、それがまた、日常の景色と溶け合っていく。この無常の身を常に照らす。

なんまんだぶ

今年も真夏の報恩講が始まります

 

今年も本願寺吉崎別院の報恩講がお勤まりになります。

期間は8月7日から9日まで。
7日と8日は、午前10時からと、午後1時半から。
9日は午前10時からのみです。
7日と8日はお斎(オトキ、法要の時に出るお食事)がでますよ。
※お斎を召し上がりたい方には御懇志1000円以上をお願いされています。

真夏の報恩講。
汗だらだらで御聴聞です。
今年の御講師様は、福井県千福寺ご住職の高務先生です。
大きなお体から軽快な語り口でお取次ぎされるご法話、慈海も今からとても楽しみです。

毎年恒例、真夏の報恩講法要。
報恩講と聞くと、この御文章を思い出します。

そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。(略)
<帖内 二帖1通目「御浚え」の御文章より>

「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ」
マメにこの信心の溝をさらって、如来様の法の水を流しなさいな。
こういう表現って、蓮如さんやなぁと思いますよね。

昔の人は「耳を育ててもらった」なんて表現をよくされたそうですが、世事にかまけ、浮世に耳を奪われ、その中でついつい「正しさ」という耳でモノゴトを聞くクセがついてしまいますけど、マメにこの耳に法を聞かせててやらにゃぁ、ついついこの慈海は如来様をこちらに引き寄せて考え始め、自己弁護、自己正当化、自己満足の道具にしようとしてしまいます。

「御信心」がなにかそういったモノがあるように思い込み、「御信心」を頭でカタチ作り、「御信心」を少ない言葉で小さくまとめようとしてしまう。
そんでもって、いつか、どこかで、だれかが、わけのわからないものに成るといった、わけのわからない話をし始めるのです。

信心の溝は、この耳にある。この慈海の耳を通って、如来様の御信心が なんまんだぶ と流れてくださる。

暑いさなかだけれども、どうぞどうぞ、この「溝さらい」に吉崎までいらしてください。
汗を流しながら、法の水をこの耳に流し込んでもらいましょ。

さて、ということで、吉崎のこの報恩講がおわるとすぐにお盆です。
なんだかんだ言って、日本人なら一年で一番「仏教」に触れる機会が多くなるのが、このお盆の時期じゃないでしょうか。

お寺さん界隈は、全国的にざわざわと忙しい時期に入って、なんだか浮かれた感じにもなってきますが、この時期、何を願い、何を拠り所とするのか、一緒にゆっくり味わえたらいいですね。

なんまんだぶ