如来と一緒に歳をとる

元日の日、慈海の村のお寺で修正会という、元日の法要があった。

毎年欠かさずお参りに行っていた村のおばあちゃんは、昨年末から体の調子を崩し、今年はお参りに行けないでいた。

「今度の修正会は、体キツイで、お参りにいけんかも知れんわぁ」

と昨年末お会いした時におっしゃっていたので、それなら、慈海がお参りに行くよというと
「そんなん、忙しいやろに、いいって、そんなんいいって。」
と遠慮してか、悪い悪いとその時は言い続けていたものの、お寺での修正会と、懇親会が終わってから夕方頃おばあちゃんの家に行くと、
「遅かった!ずっと待ってた!」
と、朝からずっと楽しみに待ってくださっていたようだ。

じゃぁ、さっそくお勤めしましょかと、言ったものの、仏間は寒そうだったので、おばあちゃんの部屋でお勤めをすることに。
こんな事もあろうかと、持ち歩いている懐中名号のご本尊を床の間に安置し、仏間からキンを借りてきて、正信念仏偈のお勤め。

調子が悪いはずなのに、しっかりとした声が背中から聞こえてくる。
慈海は、読誦しながら、体が悪い時に逆に迷惑やったやろうかとか、無理させているんじゃないだろうかとか、そういうことが気になっていた。

15分ほどのお勤めが終わり、回向文を発音しようとしたその直後、

「なんまんだーぶ! なまんだーぶ! なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……」

ひときわ大きな声が、慈海の背中をドンと押した。

翌日、師に電話でその話をした。

「お念仏の声に、迫力を感じました。」
「あったりまえやろ。まさしく今、後生の一大事のお念仏やろ。」

慈海の背中を押したのは、おばあちゃんの生きてこられた年月の迫力かもしれない。

「なぜ生きて、なぜ死んでいかねばならないのか。
なぜ人は、独りで生まれて、独りで死んでいかねばならないのか。
そこんところをもっとしっかり観ていかんとな」

阿弥陀様と一緒に歳をとってこられた、そのお念仏の声である。

慈海もまた、同じ阿弥陀様と一緒に歳をとる。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ