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「あのさ、今日村の子供のクリスマス会があったんやけど、そこでお説教してね……」
「坊さんが、クリスマス会でお説教か!おもろいな。そんで、どうやった?」
「いやぁ、散々だった。」
「誰も聞かんかったか〈笑)」
「うん、もう、ほんとに散々だった……」
と、その日の顛末を話すと、ハハハと笑いながら聞いていた父が
「小さい子から、高学年の子まで幅広かったんやろ?そりゃぁむずかしいわ。プロの先生でも難しい。」
と話しだす。なんだか嬉しそうだ。
父に教えを請うというのもいいもんだ。
「やっぱそうかぁ。なんちゅうか、コツみたいなのないんか?」
「そやなぁ、まぁ、まずはコッチに注目してもらわんとな。」
「どういうこと?」
「お前は大人相手に話してるからわからんかもしらんけど、大人はな、何も言わんでも、前に立つだけでコッチに注目してくれるもんや。とくに坊さんとかやったらな、なおさらキチンとして話し聞く姿勢になってくれるかもしれん。でも子供はちゃう。何か関心を引いて、コッチに意識を向けさせんとな。」
「なるほどなぁ。でも、どうやったらいいの?」
「たとえば、紙芝居あるやろ。ああいうのがいいな。絵とか映像があったら、コッチ見てくれる。『何が始まるんやろ?』って興味を持たせんとな。そんでも、注目してくれてもすぐに飽きるから。変化がないとあかん。子供はすぐに興味が他に移るからな。それとな……」
さすが「教育」に人生をかけてきただけはある。
次々と的確にアドバイスする父の声が頼もしく感じた。
なんで事前に相談しなかったんだろう!
もし、来年また声をかけてくださることがあるのなら、リベンジだ!
と、その時熱く心に誓ったのであった。
そして、ここからが今年の話。
昨年とは別の幼なじみから、電話がかかる。
今年は彼が役員になったそうだ。
「今年もクリスマス会でお説教して欲しいんですけど、いいですか?」
「おう!ありがとう!がんばるよ!」
二つ返事でお話しを受ける。
もしかすると、昨年の惨状に呆れて、声はかからないかとも思っていたが、うちの村の若い衆は勇気がある。
“クリスマス会で坊主がお話しするって面白いじゃん!うちの村の名物にしよう!”
という話が出ていたとかいないとか。
ともかく、ありがたいことだ。
さて、今回は前回とは違う。
痛い思いもした。臥薪嘗胆、あの悔しさが慈海を育てた、はずだ。たぶん。
父からのアドバイス通り、紙芝居にしようか。
プロジェクターで動画でも流そうか。
大きな紙に絵を書いて、それを使ってお話しようか。
色々な案が頭のなかを駆け巡る。
そして、慈海は決めた。
マジックだ!!!
なんの変わりもない普通のバナナの皮を剥くと、何故かバナナの実が切れている、というマジックのタネを、先日知り合いから教えてもらっていた。
これは使える!
そう思って、何度か練習してみたところ、うまく出来た。
“一つのものを分けあう”
という話にすれば、クリスマスらしいお話しにも繋げられる!
見てろよ、村の小さい妖怪達め。
クリスマス会当日。
折しも大荒れの夜となった。
みぞれ混じりの雨のなか、会場へ向かう。
タネを仕込んだバナナを携えて、妖怪退治にいざ向かわん。
今年の坊さんは違うぞ。
マジックだけじゃない。
もしこの手が通用しなかったことも考えて、奥の手も用意してある。
ふふふ……
そう独りつぶやきつつ、携帯からすぐに流せるようにしておいた「ようかい体操第一」を再度確認する慈海。
万が一の時は、これさえ流せばなんとかなる!
時代を味方につけた坊主を甘く観るなよ。
会場入りする慈海。
控室で心を落ち着ける。
脳裏に前回の屈辱がよみがえる。
あのときの敗因は、そうだ、子供を甘く見ていたからだ。
今年は違うぞ。
今年は……
ん?
本当に今年は違うのだろうか?
手にしているそのバナナはなんだ。
携帯に仕込んだ「ようかい体操」とか、もう完全に子供だましではないか。
子供を騙して、なんの話をしようとしているのだ俺は?
そろそろお願いしますと、会場に通される。
会場は二階の広間だ。
階段の踊場に大きな鏡が据え付けられている。
その鏡を見て少しくギョッとした。
坊さんだ。
お袈裟を掛けた、坊さんがそこにいる。
しかも、頭には、サンタ帽を被っている!
(直前で、子供受けを狙って、サンタ帽だけかぶって出よう考え、借りて被ったのだった)
なんとも、へんてこりんな姿だ。
お袈裟が、煤けて見える。
子供だましだ。
嘘つきの姿だ。
ピエロでさえもない。
中途半端な格好をした小阿呆がそこにいた。
以前聞いた話を思い出す。
「ある時な、和上さんが青年団かなんかの報恩講でご法話することがあったんやと。
はて、困った。仏さんの話を聞いたことも無いもんに、何の話をしたもんか。
そう悩んだそうや。そんでな、和上はハタと思ったそうや。
大経はどうや。阿難尊者は、お釈迦様から法蔵菩薩のお話しを聞かされたとき、初めてその話を聞かされたんやったやなかったか。
そうしてな、法蔵菩薩のお話しをしっかりとされたそうや」(詳細渇割愛)
お釈迦様は、阿難尊者に、子供だましの話をされたやろうか。
小手先のマジックとか、流行りの歌で、ごまかそうとされたやろうか。
会場に入る。
まだ迷っている。
この期に及んで、頭のなかが真っ白になった。
手にはバナナ。
頭にはサンタ帽。
覚悟のない坊主を、無数の瞳が捉えて、昨年と同様はやし立てる。
合掌する慈海。
小さくお念仏をする。
ナンマンダブ ナンマンダブ ナンマンダブ ……
(いつものように、話そう。)
今日はね、クリスマス会の集まりやったねぇ。
さて、ほんなら、クリスマスって、なんの日や?
(爺さん、婆さんの前でしゃべるのとおんなじ、古い福井弁バリバリな話し方になってる!まぁいいか。)
ほや(そう)!よう知ってるのぉ、クリスマスちゅうのは、イエス・キリスト様の誕生日やったね。
じゃぁ、クリスマスちゅうと、もう一人有名な人がおるのぉ?誰やったっけ。
ほや!サンタクロースさんやったの。
んー?おかしいのぉ、イエス・キリスト様の誕生日なのに、なんでサンタクロースが出てくるんや?
サンタクロースって、一体誰や?
ここまで話して、マジックを披露するのを忘れていたことを思い出す。
しまった!バナナ、せっかくタネを仕込んだバナナ。
足元の袋に入ったままである。
マジックで、子どもたちの興味をコッチに向けさせるはずだった。
そのはずだったが……、おかしい。
マジックしていないのに、みんな、真剣にコッチを見ている。
真剣に、話の続きを待っている。
マジックしてないのに……
ええいままよ、とマジックのことは一旦頭から追いやって、そのままサンタクロースのモデルとなったという、セント・ニコラウスさんのお話を続けた。
子供向けに話をした。
けど、子供をだますような話はやめた。
スイッチが入った。
「話しに行こうとすんな。お前が話を聞かせてもらってこい」
以前、初めて大きな法要でご法話を取り次ぐ事になった時、師に緊張していると話したら、そう聞かされた。
「緊張するのは、お前、話を披露しようとしてるからやろ。聞いてこいや。聞きに行くもんが緊張するか?」
何度も、法座に立つときには、心に刻んできたつもりだったが、すっかり忘れてしまっていたようだ。
お話しが終わり、会場を出ようとするとき、とある女の子が駆け寄ってきて
「ぼんさん、ぼんさん、ありがと。これあげる」
と、チョコレートを差し出してくれた。
ああ、分け与えるということを教えようとしていたけれども、しっかりと、子供のほうが知っていた。
やはり、ここでも、慈海は聞く方であったか。
昨年は、完敗だった。
今年も、負けた。
ありがたい敗北だ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
<補足>
とは言いつつも、せっかく用意したネタなので、途中でしっかりとマジックは披露しました。
が、せっかく苦労して用意したマジックですが、バナナの手品と分かった瞬間に
「知ってる!あれ、中身切れてるんやよ!」
と、ご丁寧に大声で言いふらしてくださる子もいたりして、あまり誰も見ていなかったです(苦笑)
子供のほうが、全然上手(うわて)でしたね。
<補足2>
お話しは、サンタクロースの話だけではなかったです。もちろん。
その気がアレば、また別でその時話した内容を記事にするかもしれません。しないかもしれません。
なんまんだぶ