【勉強会@スペースおいち】「書いて聞いて味わう仏教講座」4月の講座お休みのお知らせ
毎月、第四火曜日の夜に開催しています、レンタルスペース「スペースおいち」さんでの、仏教講座『書いて・聞いて・味わう仏教講座』ですが、4月28日夜19時から予定していた第三回の講座を、講師(慈海)都合により、おやすみさせていただきます。
今月開催予定だった回は、5月に行います。
直前のお知らせで、ご参加予定されていらした方々には申し訳ございませんが、どうかよろしくお願いいたします。
毎月、第四火曜日の夜に開催しています、レンタルスペース「スペースおいち」さんでの、仏教講座『書いて・聞いて・味わう仏教講座』ですが、4月28日夜19時から予定していた第三回の講座を、講師(慈海)都合により、おやすみさせていただきます。
今月開催予定だった回は、5月に行います。
直前のお知らせで、ご参加予定されていらした方々には申し訳ございませんが、どうかよろしくお願いいたします。
「仏教を勉強したい」という方がたまにいらっしゃる。
そういう方には、まず、朝晩のお勤めをお勧めしている。
毎朝、毎晩、正信念仏偈和讃を読誦し、御文章を拝読するのだ。
巷にあふれている、いわゆる”わかりやすい仏教”系の本を読むより、お勧めだ。
しかし、毎日の継続と言うのは、たしかにしんどい。
忙しい日常の中、毎朝毎晩、30分ほど(なれればもっと早くできるかもですが)時間を割くのは、なかなかしんどいものだ。
さらに、読誦したことがない人にとって、あの節(ふし)は、結構ハードルが高い。
聖典が手元にあったとしても、なかなか難しいのだ。
そういう方には、こうお話している。
「三年ほど、西の方角を大事にしてみるといいですよ。
極楽浄土というのは、西の方角にあるらしいから。
寝床が、西の方角に足が向いているなら、位置を変えてみたり、外に出た時に西の方角がどっちか気にしてみたり、夕日を見つけたら、そっと手を合わしてみたり。
手を合わすのが恥ずかしかったら、そっと自分の耳に聞こえるくらいの声でいいから、なんまんだぶ ってつぶやいてみる。
コンパス持ち歩くのもいいかもしれない。
気が向いたら、西の方角を探して、そしてそっと なんまんだぶ ってつぶやくことを、三年ほどやってみると、西の方角がありがたくなりますよ。」
自分が五年ほど前に、師に言われて実践していたことだ。
慈海も、一時期コンパスを持ち歩いていた。
出先で、西の方角を訪ねてみたりすることも多かった。
実際慈海に西の方角を尋ねられたかたも、これを読んでいらっしゃる方の中にはチラホラいらっしゃるかもしれない。
そして、西の方角に気が向いた時、ちいさく 「なんまんだぶ」と、自分の耳にささやくのだ。
今でも、ふと気になると、西の方角はどちらかと探す時がある。
本を読んでも、仏教というのはわからない。
特に、戦争で親兄弟を無くし、貧乏で真っ黒になってあえぐように生きながら、そんな、現代の私達が信じられないような苦悩のどん底の中で、ひたすらお念仏を称えてきた先人達の、その行動原理を理解することはできないだろう。
仏教というのは、頭で知ることではない。
頭で知りたければ、まず、実践が不可欠であろう。
実践のない仏教はない。
行(ぎょう)のない、仏教というのは無いのだ。
行の前に、虚ろな「信心」とかいうものは、存在しない。
しらんけど。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
(顕浄土真実行文類 大行釈)
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
数ヶ月前のこと、身寄り(?)のない仏壇、というか小さな厨子を預かった。
ご遺影やご位牌はおろか、ご本尊や経本まで揃っていた。
気持ち悪がられ、打ち捨てられた。
それを拾って、一時的に預かっていた方々が、始末に困り、慈海に連絡してきた。
雪の中伺うと、埃をかぶったそのご遺影とお厨子が、倉庫の奥からガタガタ音を立てながら事務所の机の上に安置された。
預かってらした方々が、お花と供物を用意され、綺麗に拭き清められた。
慈海は、それを荘厳し、阿弥陀経のお勤めをする。
ご位牌の主は、きっと毎日この厨子を開いて、お勤めされてきたのであろう。
このご本尊は、幾度その涙を慰め、幾度喜びの声を聞いたのだろう。
最後の仕事と、慈海に経を聞かせてくださる。
慈海はそっと、よかったですね、と応える。
春になったら燃やしに行こう。
そう思いながら、自宅まで持ち帰った。
そして、先日。
3月の終わりにしては、暑いくらいの陽気の日に、再びそのご遺影とお厨子を車に詰め込み、山の畑に運んだ。
火をたく準備をするだけで額から汗が吹き出すほどの陽気であった。
時折山から降りてくる風が心地よかった。
丸めた新聞紙に火をつけ、バラバラにしたそのお厨子をくべていくと、想像以上に早く火が回っていった。
長い年月の中、古くなった木は、乾燥しきっていたのだろう。
火の勢いが大きくなったところで、ご本尊とご位牌をくべる。
そして、最後にご遺影をそっと火の上に横たえた。
炎が立ち、ゴウゴウと音を立てる。
煙がゆらめきながら青い空に昇って消えていく。
その煙の行き先に、御役目、ご苦労様でしたと、手を合わした。
しばらくたって、炎も落ち着いた頃、突然赤い炭の中からバチバチと音がした。
何か変なものでも混じっていたかと、炭の中
焚き火のせいか、冬眠から覚めてしまったのだろうか。
土の中から出てきたはいいが、まだ蛙には少し冷たい風に、暖を
反射的に木の棒を炭の中に突っ込み、その蛙を弾き出した
草むらの奥に、あわてて跳ねて行き、見えなくなった。
供養しようとしたのだろうか。
とっさに、口から念仏が溢れる。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……と、呟く。
呟きながら、
「その念仏はどういうつもりの念仏や」
と、師の声を聞いた気がした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「昔はお金の話はタブーやった。」
とある老人が、難しい顔でこう語りだした。
たばこをもみ消すと、こう続けた。
「昔は、お金の話をすると『みっともない』と窘められたもんや。
人前でお金の話をするということは、恥ずかしいことやった。
お金の話が恥ずかしいことでなくなっていくと、今度は性の話がタブーではなくなっていった。
性にまつわる言葉が平気で聞かれるようになった。
それは、お金も、性もおもちゃになってきたんかもしれんなぁ。
そして、今、最近では仏教がおもちゃにされるようになってきた。」
今日は、花まつりであった。
4月8日は、お釈迦様がこの世にお出ましになられた日であった。
花まつりといえば、白い象と、甘茶である。
その昔、インドの釈迦族の后であるマーヤ夫人は、お腹の中に白い象が入っていくという夢を見られたそうだ。
そして、お釈迦様を身ごもられたという。
その話にちなみ、白い象の像をお寺の前に飾ったり、時には子供がその像を神輿のように引いて歩いたりすることがある。
慈海も、子供の頃、その大きな白い象に、驚いたものである。
また、お釈迦様がこの世にお出ましになられた時、天空からは甘露の雨が降り注いだという。
この話にちなみ、花まつりでは、お釈迦様の像に、甘茶という、天然の甘味料が含まれているお茶をかけて、お釈迦様の誕生をお祝いするのだ。
慈海も、子供の頃、この甘茶を飲ませてもらうのが楽しみであった。
今でも、口の中にはその甘茶の甘みを思い出すことができる。
ジュースやサイダーなど、もっと美味しいものが溢れてはいたが、それでもこの甘茶というのは、不思議な、特別な飲み物であった。
年に1度、ほんの一口しかいただけなかったからかもしれないが、特別な味わいであった。
今では、少子化や、お寺さんの疲弊によって、この花まつりというご法縁は、極端に少なくなってきてしまった。
その代わり、大人が仏教を「楽しむ」ようになってきた。
「それもご法縁」と、ある人は言う。
「仏教徒でなくてもお寺に足を運んでくれれば。」と、またある人は言う。
「楽しみながら仏教に触れてくれれば」と、またある人は言う。
仏縁という言葉を隠れ蓑に、仏教が世俗化していく。
出世間、この世間を離れていく教えが、世俗の中に埋もれていく。
お寺さん方が、釈尊の名を呼び捨てにし、おもちゃにしたような語呂の良い言葉で、今日の花まつりを楽しむ。
それを、敷居を下げる工夫であるとうそぶく姿を、蓮如さんはどう言われるであろうか。
小林一茶は次のような句を残されているそうだ。
世の中は 地獄の上の 花見かな
後生の一大事。
おもちゃの船に任せられるか。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
聞見会新聞 第四号 が、出来上がりました。
送付ご希望のご連絡くださっていた方々には、今月中に発送手配いたします。
お手元に届くまでしばらくお待ちください。
また、今回もPDF版をご用意しました。
ご希望の方はこのページ下からダウンロードしてご覧ください。
さて、今回は、前回の第三号よりもさらに4ページ増量しました。振り返ってみると、号を重ねる毎に4ページずつ増えてきています。このまま行くと、来年には、、新聞どころか小冊子になってしまいそうです。ま、それはそれで、読み応えがあっていいかもしれません。
ということで、今回のコンテンツは、下記の通り。
前号に掲載した「念力門」は、今回おやすみしました。
続きは次号に掲載予定です。
この聞見会新聞をご希望の方は、下記[配送希望フォーム]より、必要事項を入力の上、ご連絡ください。
代金は不要です。送料もこちらで負担いたしますが、もしよろしければ、聞見会の活動に寄付くださいますと嬉しいです。
次号(第五号)は、平成27年6月に発行予定です。
■コンテンツ
■発行日
平成27年3月22日
■ウェブ版PDFダウンロード
聞見会新聞【第四号(平成27年3月22日発行)】PDF 版(1.19MB)
■ 配送希望フォーム
念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。
(要集 上 正修念仏 作願門 / 七祖聖教p930)
朝からふと、この「念仏修善」の”しゅ”がどの字だったか気になって仕方なく、さらにどこの御文かも忘れてて、あーでもないこうでもないと、モヤモヤして気持ち悪かった。
落ち着かないので、林遊さんに電話。
「上巻!作願門!」
というヒントに
「へ?大経?」
とアホなリアクションして、しまったと思ったとたんに、見えないスリッパがスパーン!
「アホか!そういう言葉が大経にあるわけないやろ!」
と電話越しに一喝された。
言葉をリンクさせて、連想するような、辞書的な知識だけだから、こうなる。
得てして、物事を知っているということは、言葉を知っていることのように勘違いしやすいけど、そんな知識は、携帯で検索すれば事足りる知識だろうなぁ。
辞書的な知識にとらわれるというのは、自らを言葉によって呪縛していくようなものかもしれない。つまり、自縛というやつだ。
「この教えは、解放していく教えやぞ」と聞かされている。
言葉が打ち破っていく、言葉の世界だ。
浄土や、往生ということを、辞書的に知って、その先の「本懐」までたどり着けず、自縛している姿は、まるで、やっと育った木の実を食べることもせずに、その華や実を眺めるだけで、腹が減った、腹が減ったと、ぼやいているようなもんかもしれん。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
日時:2015年3月24日(火)19時から
会費:1000円
場所:スペースおいち(福井市中央1-17-1ビッグアップルビレッジ2F)
第三回目となる、「書いて・聞いて・味わう仏教講座」@スペースおいちは、3月24日の夜7時から開催いたします。
前回は、初めての本番ということもあり、ちょっと堅苦しい感じになってしまったかもしれません。
ですが、ご参加くださった方々それぞれが、「仏語に向き合う」ということを、それぞれの思いで楽しまれたのではないでしょうか。
今回は、第二回目となりますので、もっと気楽に、落ち着いて、仏語に向き合うということを、楽しんでいただけるのではないかと思います。
また、前回も前々回も参加してなかったという方でも、大丈夫です。
初回の方には、初回の方用のプログラムもご用意しております。
講義内容に遅れてついていけない、ということがないように考えていますので、安心して、お気軽にご参加ください。
また、初めてのご参加の方には、聞見会より筆ペンをプレゼントいたします。ぜひ、お誘い合わせの上、多くの方にご参加ください。
■書いてみる■
いわゆる「写経」のような堅苦しいものではありませんが、筆ペンで、「正信念仏偈」を書いていきます。1講座のうち、漢字56文字くらい(回によって異なります)ですので、気軽に書いてみましょう。字の上手い下手は気にしないで、筆で書くという動作を通して、「仏語」に真剣に向き合いながら、その「言葉」のもつ力に触れてみよう、という試みです。
■聞く■
書いた文字を、声を出して一緒になんどか読んでみます。そして慈海が、今書いたその言葉の味わい方を、ほんの少しだけご紹介します。
■味わう■
仏語を目で見て、手で書いて、耳で聞いて、そしてその響きを「味わう」のが、今回のコースの目的です。言葉がひらいてくれる、「言葉を超えた世界」を、味わってみましょう。
☆特典☆
本コースでは、スペースおいちさんからのご好意により、参加者の方全員に、筆ペンを一本プレゼント!
また、文字を書く紙も、慈海がご用意します。
ですので、道具を用意する必要はありません。
※注意事項※
会場の都合により、使用する筆は「筆ペン」のみとさせていただきます。ご自身で、墨や硯などをご用意されてきても、使用できませんので、予めご了承ください。
寒の戻り。吹雪の夜だ。
最近の陽気に少しホッとして緩んだ体に寒気が堪える。腰が痛い。
先日のこと。
母が昔の歌のCDを通信販売で買った。毎月一枚ずつ送られてくるらしい。
「これ、どうやったら聴ける?」
と尋ねられ、あぁそういえば、うちにはCDプレイヤーがなかったなと思い出す。
手元のスマートフォンで調べると、まだ電器店はやっているようだった。母がその様子を見ながら、時代の移り変わりにため息をつく。
電器店にはたくさん音楽を聴くための機械が並んでいたが、母が一人で操作できるような、シンプルなモノは二、三種類しかなかった。その少ない選択肢のあいだを何度も往復しつつ、あちらを持ち上げてみたり、こちらのボタンを押してみたり、ぶつぶつと迷う母親であった。
「これでいい。」
やっと決まったようなので、棚から箱に入ったその商品を慈海が抱え、レジに向かう。
「無駄遣いやろか、でも歌聞きたいし……」
この期に及んでぶつぶつ言い出す母に、CD頼む前に考えなさいよと笑う慈海。
「そうね」
と、鞄からごそごそと財布を出しながら、母も笑う。
レジについて、「いくらやっけ?」と母が言うのを遮り、いいよ俺が買ったげると、慈海が財布を出すと、母はひどく驚いて、
「うそぉー!うそやろぉ?ほんとにー?」
と、まるで踊り出しそうなくらい喜んでくれた。
たった数千円で大袈裟なと思いながらも、その喜びように、ありがたいなとこちらもにやけてしまう。
家に帰り、母は、まるで宝物でも出すように、大事に大事に箱からそのCDレコーダーを取り出し、両手に抱えて居間をうろうろし始める。
なにをしてるん、はよ聴いてみね、と慈海がいうと、
「どこに置いたらいいやろか」
と、まだぐるぐる行ったり来たりする母親。
どうやら空いているコンセントを探しているようだ。
別にどこに置いてもいいやん。試しで聴くだけやし、と慈海が言うと、母は
「だってそんな、もったいないが」
と言う。息子に買ってもらった大切なCDレコーダーを、足元の床に直接置くなんて、粗末な扱いはできないと言うのだ。
その様子を見ていて、ハッとした。
これが、「お敬い」のすがた、「御恩報謝」のすがたなんやなと気がつかされた。
「現代の者は、どうもこの「御恩」ちゅう概念がわからんのかも知らん」と、いつも聞かされている。「受けたものに対して、単に取引感情で報いようというのが、御恩報謝ではないんやけどなぁ」と。
もったいないとか、おかげさまというのは、こういうことなんかと、母のすがたに教えられて、そっと なんまんだぶ と呟いた。
なんまんだぶ
【追記】
同行より、下記コメントがありましたので、一部抜粋して転載いたします。
恩には《施恩》と《受恩》の立場がありますが、浄土真宗ではひたすら受恩を論じるだけで施恩については一切論じることはありません。これを混乱すると恩という概念が仏と人との相対取引関係になってしまうでした。
称仏六字 即嘆仏 即懺悔
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
記念すべき第十回目の聞見会念仏会(もんけんかいねんぶつえ)は、第一回開催会場である、福井県越前市の長慶寺様で開催されることとなりました。
これを記念して、ご法話も、長慶寺釋一法師から賜ることとなりました。
是非、この機会に一緒にお念仏の響きをよろこばせていただきましょう。
日時:2015年3月2829日(日)9時から12時
会費:不要
場所:福井県越前市長慶寺様
〒915-0082 福井県越前市国高3丁目12−49
※国道8号線:ハナテン中古車センターの裏です。
※事前にご連絡いただければ、JR鯖江駅または武生駅まで迎えに参ります。
※慈海は、8時ごろに自宅(春江町針原)を出ます。2人まで席に余裕がありますので、声をかけていただければ会場長慶寺様までご一緒することも可能です。
お問い合わせ、送迎のご希望等については、下記メールフォームからご連絡ください。
なんまんだぶ
いつも聞見会の活動にご参加くださり、またご支援も賜り、誠にありがとうございます。
さて、本日2月24日の19時からを予定しておりました「スペースおいち」さんでの仏教講座ですが、講師急用のため、お休みとなりました。突然のご連絡で申し訳ございません。
来月の開催については、また追って、こちら聞見会ウェブサイト他でご案内いたします。
さらに、今月の聞見会念仏会につきましても、お休みとさせていただきました。
3月の開催については既に予定日等内定しておりますので、こちらも追ってご案内いたします。
楽しみにしてくださっている方々には、大変恐縮ですが、何卒ご了承くださいますと幸いです。
合掌
聞見会代表 慈海 拝