ほめるっていうこと

「ほめるっていうことは、時として大変失礼なことなんやかならな」

他人に気に入られたい、仲間だと思われたい、いい人に思われたいという感情から、容易に人をほめてしまうことが慈海にはあります。

合コンの「さしすせそ」?だっけ?あれです。

さすが! 知らなかった! すごいですね! センスいいですね! そうなんだー!

まぁ、同じようなことを多用しているわけです。他人を承認することで、自分を承認してもらうために。

そんなことを思い出してぼんやり考えながらPCを開くと、ゾウの親子の写真と一緒に

「陸生哺乳類最大の脳を持つゾウは、複雑な思考ができる賢い動物です。」

という言葉が目に入ってきました。

陸生哺乳類最大の脳をもって<いない>慈海は、ゾウからなんて思われてるんだろうなぁ。

「無明」という言葉を知っていても、自らが無明であることを知るのは、いったいいつになるのだろう。

なんまんだぶ

これは光明らしい。

なんまだぶ

俺みたいなクソいつ死んでもいいんやけど

今朝「おーーーい!入道!!!おらんかぁーーー!」とやかましく入ってこられた近所のおじさんが、ハチクと根昆布をまた持ってきてくださいました。

「これはな、湯がいてから水につけておけば三日ほど持つ。こいつはこのひらひらしたところ、干したらそのまんまでもうまいぞ」

そんな話からだんだん脱線していって30分ほど玄関先で話し込んでました。息子さんが癌を患てらして「あいつの分、俺みたいなクソが癌に成ればよかったんや。何でこんな理不尽なんや」と涙を浮かべて嘆かれていたその方も、一年ほど前に癌を患いました。癌を摘出し人工肛門になっても山に入って木を切る仕事を今でもされています。

「なんや、死にかけたくせに会うたびに顔色いいやないか」

「そやろ?医者も驚いてるんや。おっかしいなー言うて首ひねっとる」

「やっぱりな、憎まれっ子世にはばかる言うのはほんとやな」

「なんやと。でもそやねん。俺みたいなクソいつ死んでもいいんやけどな。世の中おっかしいわ」

休日に慈海がいると酒臭い息を吐きながら「おおおーーーーーーい!にゅうどーーーーーぉ!」と夢おどろかす声をあげながら境内に入ってきます。

その方が帰られた後も立て続けにお客さんあり、先ほど予約されていた一座経のお参りを終えて、寺務所から境内を眺めています。雲ひとつなく気持ちよく晴れて、まぶしく境内が輝いてます。ふらりとお参りに入ってこられる方々の足音が心地よくて、ついついお念仏がこぼれます。

なんまんだぶ

毎朝ご文章を拝読していると

毎朝ご文章を拝読していると、その日その日のご文章が、その日その日の私のすがたに合わせて蓮如上人がお説教をしてくださっているように思える。

“ちかごろは当流念仏者のなかにおいて、わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、これをもつてわが宗の名望のやうにおもひて、ことに他宗をこなしおとしめんとおもへり。これ言語道断の次第なり。さらに聖人の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。そのゆゑは、「すでに牛を盗みたる人とはいはるとも、当流のすがたをみゆべからず」(改邪鈔・三意)とこそ仰せられたり。この御ことばをもつてよくよくこころうべし。”

二帖十三通のご文章を拝読する。お勤めの後、上人のお顔を見るのが恥ずかしなってお御堂をあとにする。「たふとむ人より、たふとがる人ぞたふとかりける」と上人が昔仰せになられたことを懐かしく思い出し、お勤めのあとお聖教を開いて、しばらくお聖教から目が離せなくなる。

「ありがたいもの」になるために仏さまの前に座るのではないし、お勤めをしても言葉を知ってもどれだけお念仏をしてもそのようなものに成れるわけではない。

大悲どころか、中悲も小悲も持ち合わせていない、自己顕示と自己憐憫の慢心で出来上がっている私がいくら着飾ってもいくら装っても、滑稽に見えるだけでそれを蓮如上人は静かに窘められる。

昨日夕暮れの境内に出て、この景色をしばらくゆっくり眺めていると、この場所でいずれ朽ちていくのかもとあらためて思い、最高だなと思った。

今朝のお勤めの後、穏やかに晴れた境内を眺めながら、また最高だなと思う。居場所も落ち着き場所も持ち得ない慈海が、ここであれば右往左往したままでいられる。

なんまんだぶ