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聞見会

お念仏の会

蓮如上人御一代記聞書

蓮如さんと和紙

2018年1月7日 by 慈海

新しい年が始まりました。また一つ歳を取りました。なんまんだぶ

さて、今年の年賀状は、越前和紙のハガキに、蓮如さんがいらっしゃった御山から湧き出ている水で墨をすって筆を走らせました。

先日聞いた話ですが、越前和紙というのは、蓮如さんがこの地にいらしたことから工芸として発展していったのだと、越前和紙職人の方がおっしゃっていらっしゃったそうです。その方いわく、それは和紙だけでなく、漆器や打刃物などについてもきっとそういうことが有るだろうとのことだそうです。

なぜ蓮如さんがこの地にいらしたことで越前和紙という工芸が盛んになったのか?それは蓮如さんのご功績といえば和紙に関係することが多くあるからでしょう。この地で正信偈和讃でのお勤めを定められ、それに合わせてお勤めの本をこの地で印刷し門徒衆に配り始められました。当然当時は本にする紙は漉いた和紙です。そして多くのお名号を下付されるようになりましたが、そのお名号を書くのももちろん和紙に書かれるわけです。さらにはご文章、つまりお手紙というのも紙です。蓮如さんと和紙は切っても切れない関係にあったのかもしれません。

さて、蓮如さんと紙といえば『蓮如上人御一代聞書』にあるエピソードを思い出します。

蓮如上人、御廊下を御とほり候ひて、紙切れのおちて候ひつるを御覧ぜられ、仏法領の物をあだにするかやと仰せられ、両の御手にて御いただき候ふと[云々]。総じて紙の切れなんどのやうなる物をも、仏物と思し召し御用ゐ候へば、あだに御沙汰なく候ふのよし、前住上人(実如)御物語り候ひき。

<現代語>
蓮如上人が廊下をお通りになっていたとき、紙切れが落ちているのをご覧になって、「阿弥陀仏より恵まれたものを粗末にするのか」と仰せになり、その紙切れを拾って、両手でおしいただかれたのでした。
「蓮如上人は、紙切れのようなものまですべて、仏より恵まれたものと考えておられたので、何一つとして粗末にされることはなかった」と、実如上人は仰せになりました。

「仏法領の物」をこの現代語訳では「阿弥陀仏より恵まれたもの」と訳してらっしゃいますが、慈海は「阿弥陀仏の物」と表現したほうがしっくりくる気がします。阿弥陀様のもの、仏からお借りしているもの、という感じでしょうか。ああでも、同じことかな。

ともあれ、
「もったいない」という日本語の根底にはこういうことがあるんだろうなと思います。御恩報謝ということについてもそうです。たんに粗末にしてはいけない。大事にするというだけでは、子供だって納得できない。なぜ粗末にしてはいけないのか。なぜ大事なのか。それは、私のものではないからです。この私の体でさえも、仏法領の物かもしれません。それが言いすぎであるならば、如来様の御恩を被る身であるからこそ、大事にするんでしょう。長生きするため。やりたいことをやるため。健康で気持ちのいい日常を送るために、大事にするわけではないのでしょうね。仏様のおはたらき場であるのが、この私という体ですから、そりゃ、自分勝手に粗末にしてはいかんのでしょう。といいながら、慈海は正月お下がりのお餅を食べすぎて数キロ太ってしまったのですが、あはは。。。 いや、これは、お供えのお下がりを大事にしたんです。ゲフンゲフン。

話題がそれました。
ということで、蓮如さんと紙の話でした。まぁ、ソースを追ったわけでもないですし多分に想像だけで話しているので、勘違いとかもあるかもしれませんけど。

蓮如さんがご文章をお書きになられた越前和紙に、蓮如さんも同じように墨をするときに使われた御山の湧き水。今朝もこの正信偈和讃でのお勤めが始まった場所で、同じく正信偈和讃でのおあさじを戴き、蓮如さんお形見の御真影の前で、蓮如さんからのお手紙であり、お形見のご法話であるご文章様を聴聞し、蓮如さんが形見としてくださった御六字を「なもあみだぶ なもあみだぶ なんまんだぶ なまんだーぶ」と口から耳に聞かせてくださいました。まるで法の水の中に身を浸しているような気分です。

どうです?吉崎暮らしってなかなか羨ましい生活でしょ?
風雨荒く、県境で辺境の地とも言われますし、アクセスはしにくいけど、ほんと仏法のど真ん中の場所ですよ。吉崎って。

けど、まぁ、それは吉崎だけが仏法のど真ん中ではなかったですね。この口からお念仏が聞こえる場所がどこであっても、如来様のど真ん中、正信偈のお勤めをすればそこに御開山上人もいらっしゃって、ご文章をお聴聞すればそこが蓮如さんの御法座にいるのと同じでありました。

どうぞ今年も、ともに仏法に身を浸し、ともに如来様の智慧の光を仰ぎ、ともに如来様の御恩とともに なんまんだぶ とよろこばせてくださいませ。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 年賀状, 蓮如, 蓮如上人, 蓮如上人御一代記聞書, 越前和紙

おいくつになられましたか?お念仏申されませ。

2016年1月3日 by 慈海

一 勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。

(勧修寺村の道徳が、明応二年の元日、蓮如上人のもとへ新年のご挨拶にうかがったところ、上人は、「道徳は今年でいくつになったのか。道徳よ、念仏申しなさい。念仏といっても自力と他力とがある。自力の念仏というのは、念仏を数多く称えて仏に差しあげ、その称えた功徳によって仏が救ってくださるように思って称えるのである。他力というのは、弥陀におまかせする信心がおこるそのとき、ただちにお救いいただくのであり、その上で申す他力の念仏は、お救いいただいたことを、ありがたいことだ、ありがたいことだと喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなのである。)

<蓮如上人御一代記聞書 より>

 

年が変わったからといって、何かが変わるわけでもありませんが、それでも新年を迎えるというのは、心新たな気持ちにさせてくださいます。
初参り、初詣、いつもは足の向かなかったところに足を向け、いつもはそれほど合わすことのなかった手を合わせ、いつもは思い馳せることのなかった佛や神に気持ちを向けることのできる、時節かもしれません。

年齢の数え方として、現代の数え方では、生まれた日を起点としてゼロ歳から数えますが、昔は母体産まれた年を1歳とし、歳をとるのは正月であったそうです。正月は、新しい年と始まりと同時に、新しい「歳」の始まりでありました。その数え方を「数え」と言ったそうで、今年慈海はその「数え」で四十三歳となりました(現代の数え方では、まだ四十一歳、誕生日が来ると四十二歳となります)。

冒頭の文は、『蓮如上人御一代記聞書』のなかの一節です。
浄土真宗に馴染みの深い方であれば、よく正月の挨拶やご法話などで耳目にすることが多い一節かもしれません。

“道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。”

貴方様は、今年でおいくつになられましたでしょうか?
どうか、どうか、お念仏申されませ。

なもあみだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

さて、昨年末とある方が遠方より福井にお越しくださいました。
「お念仏できる場所はございませんか?」
そうおっしゃるその方を、本願寺福井別院、そして吉崎別院にご案内し、供にお念仏申し、後生話に花を咲かせたことでございます。

聞見会は、「安心してお念仏腹いっぱいできる場所」を作りたいという思いから、立ち上げた会でありましたが、昨年は特にあまり活動的ではありませんでした。慈海の怠惰ゆえです。申し訳なかったです。

 

「安心して不安でいられる場所」

お念仏ができる場所というのは、そういう場所であります。

一般的に言われるような社会活動にあまり積極的な思いのない慈海ではありますが、念仏者にとっての唯一の「社会」での活動というのは、「安心してお念仏ができる場所」を作っていくことであろうと、慈海は考えています。

どうか、今年も会員の皆様、全国の「念仏者」の方々のお力をお借りして、より「安心してお念仏腹いっぱいできる場所」を作っていけたらと考えています。正直に申し上げて、言葉だけが先立ち、どう動いて良いのか、どうしたらそういう場所を作っていけるのか、手探り状態の慈海ではありますが、どうかみなさまのお力をお貸しください。

聞見会は、お念仏をされる方の会と思っております。

今年も、また多くの方々とともに、仏智に驚き、大悲を嘆じ、お念仏よろこぶことができたらと思っております。

合掌
聞見会代表 釋慈海 拝

なもあみだぶ

カテゴリー: お知らせ タグ: 蓮如上人御一代記聞書

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