おもちゃの船
「昔はお金の話はタブーやった。」
とある老人が、難しい顔でこう語りだした。
たばこをもみ消すと、こう続けた。
「昔は、お金の話をすると『みっともない』と窘められたもんや。
人前でお金の話をするということは、恥ずかしいことやった。
お金の話が恥ずかしいことでなくなっていくと、今度は性の話がタブーではなくなっていった。
性にまつわる言葉が平気で聞かれるようになった。
それは、お金も、性もおもちゃになってきたんかもしれんなぁ。
そして、今、最近では仏教がおもちゃにされるようになってきた。」
今日は、花まつりであった。
4月8日は、お釈迦様がこの世にお出ましになられた日であった。
花まつりといえば、白い象と、甘茶である。
その昔、インドの釈迦族の后であるマーヤ夫人は、お腹の中に白い象が入っていくという夢を見られたそうだ。
そして、お釈迦様を身ごもられたという。
その話にちなみ、白い象の像をお寺の前に飾ったり、時には子供がその像を神輿のように引いて歩いたりすることがある。
慈海も、子供の頃、その大きな白い象に、驚いたものである。
また、お釈迦様がこの世にお出ましになられた時、天空からは甘露の雨が降り注いだという。
この話にちなみ、花まつりでは、お釈迦様の像に、甘茶という、天然の甘味料が含まれているお茶をかけて、お釈迦様の誕生をお祝いするのだ。
慈海も、子供の頃、この甘茶を飲ませてもらうのが楽しみであった。
今でも、口の中にはその甘茶の甘みを思い出すことができる。
ジュースやサイダーなど、もっと美味しいものが溢れてはいたが、それでもこの甘茶というのは、不思議な、特別な飲み物であった。
年に1度、ほんの一口しかいただけなかったからかもしれないが、特別な味わいであった。
今では、少子化や、お寺さんの疲弊によって、この花まつりというご法縁は、極端に少なくなってきてしまった。
その代わり、大人が仏教を「楽しむ」ようになってきた。
「それもご法縁」と、ある人は言う。
「仏教徒でなくてもお寺に足を運んでくれれば。」と、またある人は言う。
「楽しみながら仏教に触れてくれれば」と、またある人は言う。
仏縁という言葉を隠れ蓑に、仏教が世俗化していく。
出世間、この世間を離れていく教えが、世俗の中に埋もれていく。
お寺さん方が、釈尊の名を呼び捨てにし、おもちゃにしたような語呂の良い言葉で、今日の花まつりを楽しむ。
それを、敷居を下げる工夫であるとうそぶく姿を、蓮如さんはどう言われるであろうか。
小林一茶は次のような句を残されているそうだ。
世の中は 地獄の上の 花見かな
後生の一大事。
おもちゃの船に任せられるか。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ