振り子時計と祖母の急逝
寝起きのお茶を飲もうと食堂に行くと、振り子時計が止まっていた。
古い上に、ずいぶんメンテナンスもしていないからか、週に2,3分以上時もくるってしまうし、いつもおかしな時間に時を知らせる鐘が鳴るようになってしまっている。
それでも、いつも食堂に行くたびに「コツコツコツコツ・・・」と振り子の音が聞こえてきて、静かな吉崎にも時が流れているのだなぁと気づかせてくれている。
その、古いけれども、立派で大きなその振り子時計は、ゼンマイ式なので、少なくとも月に一度以上はネジを巻かなければ止まってしまう。そういえばいつも月のはじめに巻いていたけれども、今月はまだ巻いていなかった。
「キリキリキリキリ・・・」とネジを巻き、振り子をちょっと揺らすとまた、「コツコツコツコツ・・・」と、時が動き始める。
昨晩、叔母が亡くなった。母の姉であった。
昨晩お風呂に入っている途中に、亡くなったそうだ。まだ訃報を聞いただけなので、詳しいことはわからないが、特に大きな病気をされていたわけでもなく、元気そうであったので、まさかそんな叔母の訃報をこんなに早く聞くとは思ってもいなかった。
母と電話で話すと、動揺した様子が声からもわかる。
いくら古くなっても、くたびれたとしても、ネジを「キリキリキリ」と巻けば、せめてもう一時(いっとき)だけでも時間が戻ってくれたらと思う時がある。
しかし、そんなネジは人間にはない。
今朝の晨朝勤行。帖内八十通の御文章を吉崎では繰り読みしているのであるが、明日朝の御文章は奇しくも五帖十六通目、「白骨の御文章」である。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ
“たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり”
夜伽のお勤め(お通夜)は明日。そして葬儀は明後日だそうだ。
母と同じく、おしゃべり好きな叔母は、今頃祖父や祖母と再会して、蓮の華の上で、土産話の紐を解いているところであろうか。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ