ありがたくもないものを
月忌のお参り先で、珍しく若い息子さんが仏間に顔を出されていた。
慣れてきてしまった慈海の読誦する声の後ろから、たどたどしくも大きな声で一緒についてくる声が聞こえる。
お勤めのあと、いつも短い法話を取り次ぐのだけれども、この日のお取り次ぎはしんどかった。
目の前に自分が座ってるような気がしたからだ。
必死で見よう見まねで真似をして、それも最近こなれてきた。それが見透かされている気がして、歴史の話に終始した。しゃべっていて、しゃべってる本人がくそつまらんと聞いていた。「しばらく法の話はせんほうがいいかもしれない。」そう思い始めていた。
ありがたいとも思っていないものを、ありがたそうに語るのは嘘だ。ありがたくないなら、ありがたくないというのが本当だろう。
「手に入ったもんは、手放しで話ができる」と聞いた。
「手に入ってないもんの話をしようとすると、話を作るようになるぞ。それは妄語やぞ。お説教で嘘は絶対アカン!お前はそれをやる。」とも聞かされた。
お取り次ぎのあと、お茶を出してくださり、しばし世間話。そのうち、お店をやっているお宅なので、先程の息子さんと二人きりになる。すると、質問をされた。
「さっきのお経の一番最初に『帰命』ってあったけど、前から気になってたけど、これってどういう意味?」
“疑問”というのは素晴らしい。同じような疑問から、慈海も始まったのだった。初心を思い出す。
さっきまで、法の話がしんどかったはずなのに、気がつけば小一時間語り合う。
法の話は、やっぱり楽しい。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ