• お知らせ
  • 聞見会新聞
  • 口耳四寸記(慈海ブログ)
  • 聞見会について
    • 聞見会について
    • 「聞見会」という名称
    • 寄付のお願い
  • 動画
    • 御文章どうでしょう? 01 はじめに
    • 御文章どうでしょう? 02 「聖人一流章」(1)
    • 御文章どうでしょう? 03 「聖人一流章」(2)
    • 御文章どうでしょう? 04 「聖人一流章」(3)
聞見会

お念仏の会

書

「安心」ってなんや

2014年2月5日 by 慈海
安心

安心

家の中に女が独り、佇んでいる。
そんな様子が「安」という文字だそうだ。

いくら風がオンオンと吹き荒もうとも、
いくら雨がザラザラと降り荒もうとも、
屋根と壁に守られて、女は、心安く、落ち着いて、悠々とした様子だ。
外の景色とは異なった、生ぬるい空気に、心地よくまどろむ姿だろうか。
その女は、身の置き場所が決まったのだ。

心の置き場所が定まることを、「安心」するという。
不安であろうとも、不安の心のまま、置き場所が決まれば、それは安心なのだ。
不安でしかいられないその心を、安置することを、安心というのだろう。

人によって、心を安置させる場所は異なる。
それぞれが、暴れる心を落ち・着かせて、置き、定めて、
その場所に根を張るのだ。

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。

(顕浄土方便化身土文類 (末))

しかし、それを「信心」というのではない。
「信心」と「安心」は別だ。
信心は、ひとつの場所に、とどまらない。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書, 言葉, 顕浄土真実教行証文類

沈黙の「音」

2014年2月4日 by 慈海
音

音

雪がシンシンと降る立春の今夜です。
今日からは春だというのに、雪が降る。
シンシンと降り積もる、とはいうものの、雪が積もると、静かです。
音のない世界をあらわすオノマトペがあるというのは、面白い。

その昔、沈黙に語りかけ続けた時もありました。
沈黙から、言葉を聞こうと、耳を澄ませた時もありました。

でも、聞こえてくるのは、静寂ばかりでした。
沈黙のなかに響く声は、自分の声ばかりでした。

口を閉ざすと、沈黙が聞こえてきます。
音のない世界は、空っぽのようで、その空っぽが、世界のすべてを内包しているようです。

今は、沈黙の言葉を聞くようになりました。
変わらず、それは自分の声と同じですが、それは、沈黙の音でした。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書

「教」は変えさせようとする力

2014年1月8日 by 慈海

教

【教】

「教え」というのは、「働きかけ」だ。
この慈海を、変えさせようという力だ。

聞いたからには、変わっていくことが、その「教え」に適うことである。
だけれども、そう簡単に、人は変われるもんじゃない。
でも、こちらが変わろうと変わるまいと、「教え」自体は変わらない。
「教え」自体は不変だ。
よかった。聞く方には、まだ変わる余地がある。

智慧は、智慧のままとどまっているだけでは、智慧じゃない。
「教」を慈海が聞くとき、智慧が能動的に働きだす。

弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
(顕浄土真実教文類)

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書, 顕浄土真実教行証文類

手

2014年1月7日 by 慈海

手

【手】

体の部位である。
上肢の先、肩からのびる腕の先の、それである。
手は、いろんなものをつかんだりする。
いろんなものに触れたりする。

一時期カウンセラーを目指して勉強していた時、
下宿していたタバコ屋のおじさんが、慈海の手を取り、自身の胸に押し当てて、こういった。

「お腹が痛いとき、お母さんが君のおなかに手を当てて、さすってくれたことがあるだろう。
痛いところに、手を当てると、少しだけ痛みを忘れるだろう。
手当てというのは、その字の通り、そういうことだ。
君は心の痛みを治す人になりたいのであれば、
まず、その人の心の痛みに、手を当てられるようになりなさい。」

ぽつぽつとそう語った、そのタバコ屋のおじいさんは、戦争の時の怪我で、足がなかった。
足がないので、手を足代わりに、歩いていた。
まるで、象の足のように太いその腕の先についた、厚くて、力強い手は、
熱くて、柔らかかった。

この手は、心の痛みにも、触れることができるらしい。
カウンセラーになる夢は、あきらめてしまったけれど、
今は、手を合わせて、その手に、仏の名前を、吹きかける。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書

貰いきる

2014年1月6日 by 慈海

貰いきる

【貰いきる】

「恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ」
そう慈海は聞かされた。

得度の後、京都の御本山から、地元福井の吉崎別院まで歩いた。
7日間の行脚であった。
出発する前、いつも法を聞かせてくださる方に、出発の挨拶にうかがった。
その時に、上の言葉を聞かされた。

「行脚するということは、いろんな方にお世話になるであろう。
お前は、お世話になることに、お返しのことばかり考えるであろう。
時には、恩を受けることを断ることもあるかもしれん。
それは、時として失礼である。
恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ。」

何かを貰うと、お返しを考える。
お礼をしなければと考えて、お礼とお返しをすると、スッキリする。

恩を、やり取りの道具にしてはいけない。
恩は、モノではない。
恩は貰いきるのが、礼儀だ。

初詣、初参り。
お賽銭を投げ入れ、手を合わせ、願い事をする。
それはいい。
しかし、注意すべきは、神仏は自動販売機ではないということ。
お金を投げ入れ、これがほしいとボタンを押せば、願ったものが出てくることを期待する。
順番が、逆である。
こちらが願う前に、すでに願われ、守られているのだ。

恩は、知らぬ間に貰っているもの。
自分が気づかぬところで、いつの間にか、賜っているもの。
お返しばかりを考えると、色も形もない「恩」に、自分勝手な価値を付け始める。

恩は貰いきれ。
貰っている恩というのは、決して返しきれるものではない。

だから、手を合わせるのであろう。
この私には、手も出せません。何もお返しすることさえもできませんという姿。

なんまんだぶ は、恩を返す言葉ではない。
なんまんだぶ と称えると、あちらのほうから、それを、御恩報謝とされてくださる。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書

「獨」

2014年1月5日 by 慈海

IMG

「獨」
犀角獨歩
獨生獨死獨去獨来
なんまんだぶ

平成25年の慈海のテーマは「聞」。
今年平成26年の、慈海のテーマは「獨」。
孤独の「独」。「独り」ということ。ちなみに、↑は気分で旧字で書いた。

【犀角獨歩 (さいかくどっぽ)】
古い経典といわれる『スッタニパータ』の中に、この言葉は出てくる。
『スッタニパータ』とは、釈尊の言葉を、詩編として残されたもの。
”犀角”というのは、つまり、犀(サイ)の角(ツノ)。
“獨歩”というのは、つまり、独り歩めということ。
「犀の角のように、ただ独り歩め」
そのように、40篇にもわたって、繰り返されている。
あえてここでは紹介しないが、興味がある方は、
[ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)]
をご覧になってみると、面白いと思う。

【獨生獨死獨去獨来 (どくしょうどくしどっこどくらい)】
仏説無量寿経巻下の、三毒段といわれる個所にある言葉。
この言葉が出てくるか所を読み下しするならば、下記の通り。

人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。行に当りて苦楽の地に至り趣く。身みづからこれを当くるに、代るものあることなし。善悪変化して、殃福処を異にし、あらかじめ厳しく待ちてまさに独り趣入すべし。遠く他所に到りぬればよく見るものなし。
(仏説無量寿経 巻下 三毒段)

ちなみに、「孤独」という言葉。
手元の漢和辞典(新字源)によると、
「孤」は、みなしご(孤児)の意味らしい。
「独(獨)」は、身寄りがないという意味らしい。

浄土真宗は、在家仏教といわれる。
”世間愛欲”の中にあるこの身を悲嘆しつつ、仏の方に心の向きを定められないこの身を慙愧しつつ、それでも、いや、だからこそ、この身にはたらく如来の大悲に縋り、報ずることも、謝することも知らない愚かさに、智慧の光が照らされているということを、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ との、このお念仏に、聞かされ、生死を超えていく道ではなかったか。

御開山聖人の、悲嘆述懐和讃を、寂しいくて暗いという人もいるけれど、
本当の独りになれるということは、そこに、光が照らしているからであろう。
あれは、とても明るい和讃だと、慈海は聞いた。

「獨(独)」ということばは、何とも、寂しくて、明るい言葉であろうか。
そのことを、この一年、じっくりと、深められるようにしたい。

そんな思いで、今年の書初めは、「獨」と書いた。

なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: スッタニバータ, 仏説無量寿経, 書, 書初め, 犀角独歩, 言葉

モノ・コト

2014年1月5日 by 慈海

モノコト

「物事(ものごと)」は、「物(モノ)」と「事(コト)」

「物(モノ)」は、手に取って、もしくは手に触れて、あるいは、目に見えて、それを知ることができる。
「事(コト)」は、手に取ることも、触れることも、目に見えて知ることは無いけれども、確かにあった。

それら二つを合わせて、「物事」と表現するこの言葉を最初に使った方のセンスには脱帽だ。
やっぱり言葉って面白い。

生きるというのは、この「物(モノ)」と「事(コト)」にさらされ続けるということだ。
色んな物事の中に、慈海はいる。

そしてまた、それら「物(モノ)」と「事(コト)」によって、慈海はつくられる。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。
(顕浄土真実教行証文類 行文類)

元照律師の釈七文を、ご開山は引文された箇所。

「名をもつて物を接したまふ」
なんまんだぶ という、名を持って、この慈海というモノを、摂取されるという。
まぁ、ここで仰る物というのは、「者」という意味であろうが。

しかしこれは、事件だ。
大事件である。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 元照律師, 書, 言葉, 顕浄土真実教行証文類

阿呆堕落偈(あほだらけ)

2014年1月2日 by 慈海

阿呆

 

《あ》 阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。
*阿呆堕落偈(あほだらけ)前川 五郎松 著

世間には、「賢くなる」勉強があふれている。
「賢くなる」というのは、「言葉」を知っていくことであろう。
より多くの言葉を知り、その言葉の使い方を身に着け、言葉を自在に使いこなせるようになることが、「賢くなる」ということだ。

「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だけではない。
意思疎通する際にのみ、この「言葉」が必要なのではない。

人は、モノ・コトを考えるとき、自分の頭の中でも「言葉」を羅列させる。
逆に言えば、「言葉」があるからこそ、人はモノ・コトを考えることができる。
考えるということは、その対象となるモノ・コトを認知するということでもあるだろう。

より多くの「言葉」を知り、その「言葉」の意味を知り、その「言葉」の使い方を身に着け、それをコミュニケーションはもとより、自己の思考を深めることが、世間では「賢くなる」ということではないだろうか。

しかし、この「言葉」という道具を使っているつもりが、逆にこの「言葉」に使われてしまっているということがある。

人は、知性を手に入れた。
それは、この「知性」に支配されたということかもしれない。

『この世には、阿呆になる勉強があるのかもしれんなぁ』
そう、慈海は聞いた。

賢くなる勉強はあまたあふれている。
賢くなることは、強くなることかもしれない。
賢くなることは、生き抜く術かもしれない。

しかし、「賢くなる」ことにかまけて、この「言葉」にならない「思い」を、置いてけぼりにしてしまうことは無いだろうか。

『賢くなる勉強はようけあるけどなぁ、阿呆になる勉強ほど、難しいことは無いかもしれんなぁ』
『お前はな、小阿呆になるなよ。どうせ阿呆になるんなら、大阿呆にならんとなぁ』

阿呆を装うことも、また「賢さ」である。

本物の阿呆になる道は、険しい。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 前川五郎松, 書, 言葉, 阿呆堕落偈

最近の投稿

  • 灯台もとくらし
  • 学習能力が無い
  • そしてまたご一緒に
  • だからねぇ……
  • 忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

アーカイブ

2025年6月
月 火 水 木 金 土 日
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  
« 7月    

Copyright © 2025 聞見会.

Omega WordPress Theme by ThemeHall

 

コメントを読み込み中…