言葉は言葉を打ち破るためにある
念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。
(要集 上 正修念仏 作願門 / 七祖聖教p930)
朝からふと、この「念仏修善」の”しゅ”がどの字だったか気になって仕方なく、さらにどこの御文かも忘れてて、あーでもないこうでもないと、モヤモヤして気持ち悪かった。
落ち着かないので、林遊さんに電話。
「上巻!作願門!」
というヒントに
「へ?大経?」
とアホなリアクションして、しまったと思ったとたんに、見えないスリッパがスパーン!
「アホか!そういう言葉が大経にあるわけないやろ!」
と電話越しに一喝された。
言葉をリンクさせて、連想するような、辞書的な知識だけだから、こうなる。
得てして、物事を知っているということは、言葉を知っていることのように勘違いしやすいけど、そんな知識は、携帯で検索すれば事足りる知識だろうなぁ。
辞書的な知識にとらわれるというのは、自らを言葉によって呪縛していくようなものかもしれない。つまり、自縛というやつだ。
「この教えは、解放していく教えやぞ」と聞かされている。
言葉が打ち破っていく、言葉の世界だ。
浄土や、往生ということを、辞書的に知って、その先の「本懐」までたどり着けず、自縛している姿は、まるで、やっと育った木の実を食べることもせずに、その華や実を眺めるだけで、腹が減った、腹が減ったと、ぼやいているようなもんかもしれん。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ