藁までとれた

今日は放光寺さんでの冬の尼講があった。
村のおばあちゃん方が集まる。中には、それこそ文字通り、這うようにしてお参りに来られる方もいらっしゃる。
天気の良い、いつもより暖かい日だったとはいえ、それでも冬のこの時期、わざわざお寺まで足を運ばれる村の方々の、原動力はいったい何なのであろうか。
有難い姿である。
ご住職のご法話。
『念仏者としての生き方』というお話であった。
厳しい言葉が並ぶ。なかなか難しい生き方だ。
お聴聞しながら、よく聞かされている話を思い出す。
「米とろうと思うたら、藁までとれた」と聞いた。
“現生十種の益(げんしょうじゅっしゅのやく)”の話だ。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
(顕浄土真実信文類 > 経釈文自釈 > 現生十種の益)
「これな、よう気を付けて読んでみ。おかしいと思わんか? いうてる順番が変やろ?
普通に言うなら、”かならず現生に十種の益を獲”て、その後に”横に五趣八難の道を超え”るんやと思わんか?
これな、きっと御開山は言いたいこと先に言うてまう癖があったんやろうな。まぁいうなら、筆が滑るんやろう。大事なことを先にいうてまうんやろうなぁ。
たとえて言うならな、昔の坊さんはうまいこと言うたなぁ。
“米とろうともったら、藁までとれた”
ちゅうお説教された方いらっしゃったなぁ。
今になってな、あぁ!あの坊さんこのこと言いたかったんか!って驚くなぁ。」
つまりは、こういう話だ。
藁は藁で、縄を編んだり、燃やして灰にして肥料にしたり、まぁ、藁も使い道は多い。
けれども、その藁を取るために、農家の方々は米を育てているわけではない。米をとろうとしたら、付随的に藁もとれるわけだ。
お念仏を称えて、お念仏をこの耳に聞くちゅうことは、生死(しょうじ)を超えていく、往生極楽の道であった。
その往生極楽の道を聞いた今、この現生で、十種の益を獲ているのであった。
普通に言えば、念仏称えたら、この娑婆で十種の益を獲て、極楽に往生していくのですよ、という話だ。それでは、とろうとしてるのは、藁であったか、米であったかわからんようになる。
綺麗に生きて、綺麗に死んでいくのが、お念仏の教えではなかった。
汚く、醜く、みっともなく、情けなく生きて生きて生きて、浅ましいこの身と、愚かなこの心に、厭いつつもしがみついて、しがみついて、しがみつきながら、畳をかきむしって、きっと慈海は死んでいくのだろう。
それを、仏さまは、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ とほめてくださるという。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ