1.天狗の門
その門は、特徴的なその大きな鬼瓦から、「天狗門(てんぐもん)」と呼ばれていました。
天正十九年(1591年)、当時の関白太政大臣であった豊臣秀吉の寄進によって、浄土真宗の本山である本願寺(ほんがんじ)が建立されました。
境内には、今でも桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されています。
重要文化財の阿弥陀堂(あみだ堂)と御影堂(ごえいどう)。
秀吉の邸宅であった聚楽第(じゅらくだい)の一部を移築し、金閣、銀閣とあわせて京都三名閣と称される国宝飛雲閣(ひうんかく)。
同じく国宝の唐門(からもん)は、桃山時代の豪華な装飾彫刻が見事で、眺めていると日が暮れることを忘れてしまうほどであることから、「日暮しの門(ひぐらしのもん)」とも呼ばれていました。
そのほかにも国宝、重要文化財が数多く残されているこの本願寺は、平成六年(1994年)十二月には、ユネスコにより世界文化遺産に登録されました。
その本願寺の北側にあったのが、例の天狗門です。
正式には「北乃総門(きたのそうもん)」と呼ばれる、本願寺の北側の総門でした。
四脚唐門(しきゃくからもん)様式のこの門は、本願寺境内と同様に、秀吉によって寄進され、建立された門の一つでした。
国宝とされた唐門と比べれば質素ながら、数百年の間、お念仏とともに本願寺に参られ、またお念仏ととも帰って行かれる無数の方々の声を、黙って聞いてこられた門でありました。
元治元年(1864年)の夏、尊王攘夷を掲げる長州藩が、京都守護職であり、新撰組を配下にもつ会津藩主松平容保の排除を目指して挙兵し、京都御所西門の蛤御門で武力衝突しました。
後に言う蛤御門の変(禁門の変)です。
この変に伴い、京都の大半が火に包まれました。
鉄砲の音とともに、京のまちは手の施しようのないほど炎上し続け、東本願寺や本能寺をはじめとする、多くの寺院が焼失していきました。
この火災はみるみる火の手が広がっていく様から、「どんどん焼け」とも、鉄砲の音とともに火の手が広がっていくことから「鉄砲焼け」とも呼ばれたそうです。
本願寺にも火の手が迫ってきていました。
想像するに、おそらく火の手に追われた町の人たちが、多く本願寺境内に逃げ込んで来ていたことでしょう。
火の粉が舞い、あちこちで鉄砲の音が鳴り響き、京の空は赤く染まっています。
煙にむせながら、恐怖に震えつつも阿弥陀如来に、親鸞聖人の御影に、助けてくれ助けてくれと、お念仏を繰り返される方も数多くいたのではないかと思います。
走り回る僧侶の方々、叫びあい無事を確かめあう人々。
境内に響く無数のお念仏の声。
それでも本願寺の北側には、情け容赦なく火の手が迫ってきます。
しかし、その前に、本願寺北乃総門、通称天狗門と呼ばれたあの門が、立ちはだかりました。
かろうじてこの天狗門によって火の手は遮られ、本願寺の類焼は免れることとなりました。
そして、この天狗門は、以降「火止の御門(ひどめのごもん)」とも呼ばれるようになりました。
本願寺北乃総門、通称天狗門とも、火止の御門とも呼ばれたこの門は、静かに京の街を見つめ、本願寺を守り、行きかう人々のお念仏の声を聞きながら、それからも時代の移り変わりを黙って見つめ続けていました。
江戸幕府が朝廷に大政奉還し、明治時代、大正時代を経て、昭和の時代日本は太平洋戦争に突入し、そして敗戦します。
敗戦後の昭和二十五年(1950年)十月、京都の町を国際的な文化観光都市とする計画が立ち上がります。*
さて、このころ、京都の都市計画により、京都の道路や土地区画を整理することとなりました。
その際、本願寺北乃総門(天狗門、火止の御門)が、この計画によって、取り壊されることが決定しておりました。
秀吉の時代から350年以上、お念仏にすがる方々の姿を見守り続け、時には火の手にさらされながらも、威厳を持って静かに立ちつづけたこの門も、とうとう最後の時が迫ってきました。
この話を耳にした、ある男がおりました。
福井県あわら市にある西本願寺吉崎別院の輪番、巨橋義信(こばしぎしん)師でした。
(つづく)
*この都市計画については、現在調査しなおしています。実際、いつ、どういった経緯で計画された、どのような計画なのか、わかりましたら、改めて追記いたします(2014年5月1日 慈海 注)