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聞見会

お念仏の会

前川五郎松

阿呆堕落偈(あほだらけ)

2014年1月2日 by 慈海

阿呆

 

《あ》 阿呆になりたや、底抜け阿呆に、阿呆になれたら楽だろな。阿呆になられん阿呆がここに居る。
*阿呆堕落偈(あほだらけ)前川 五郎松 著

世間には、「賢くなる」勉強があふれている。
「賢くなる」というのは、「言葉」を知っていくことであろう。
より多くの言葉を知り、その言葉の使い方を身に着け、言葉を自在に使いこなせるようになることが、「賢くなる」ということだ。

「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だけではない。
意思疎通する際にのみ、この「言葉」が必要なのではない。

人は、モノ・コトを考えるとき、自分の頭の中でも「言葉」を羅列させる。
逆に言えば、「言葉」があるからこそ、人はモノ・コトを考えることができる。
考えるということは、その対象となるモノ・コトを認知するということでもあるだろう。

より多くの「言葉」を知り、その「言葉」の意味を知り、その「言葉」の使い方を身に着け、それをコミュニケーションはもとより、自己の思考を深めることが、世間では「賢くなる」ということではないだろうか。

しかし、この「言葉」という道具を使っているつもりが、逆にこの「言葉」に使われてしまっているということがある。

人は、知性を手に入れた。
それは、この「知性」に支配されたということかもしれない。

『この世には、阿呆になる勉強があるのかもしれんなぁ』
そう、慈海は聞いた。

賢くなる勉強はあまたあふれている。
賢くなることは、強くなることかもしれない。
賢くなることは、生き抜く術かもしれない。

しかし、「賢くなる」ことにかまけて、この「言葉」にならない「思い」を、置いてけぼりにしてしまうことは無いだろうか。

『賢くなる勉強はようけあるけどなぁ、阿呆になる勉強ほど、難しいことは無いかもしれんなぁ』
『お前はな、小阿呆になるなよ。どうせ阿呆になるんなら、大阿呆にならんとなぁ』

阿呆を装うことも、また「賢さ」である。

本物の阿呆になる道は、険しい。

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 前川五郎松, 書, 言葉, 阿呆堕落偈

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