モノ・コト
「物事(ものごと)」は、「物(モノ)」と「事(コト)」
「物(モノ)」は、手に取って、もしくは手に触れて、あるいは、目に見えて、それを知ることができる。
「事(コト)」は、手に取ることも、触れることも、目に見えて知ることは無いけれども、確かにあった。
それら二つを合わせて、「物事」と表現するこの言葉を最初に使った方のセンスには脱帽だ。
やっぱり言葉って面白い。
生きるというのは、この「物(モノ)」と「事(コト)」にさらされ続けるということだ。
色んな物事の中に、慈海はいる。
そしてまた、それら「物(モノ)」と「事(コト)」によって、慈海はつくられる。
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。
(顕浄土真実教行証文類 行文類)
元照律師の釈七文を、ご開山は引文された箇所。
「名をもつて物を接したまふ」
なんまんだぶ という、名を持って、この慈海というモノを、摂取されるという。
まぁ、ここで仰る物というのは、「者」という意味であろうが。
しかしこれは、事件だ。
大事件である。