【一日一法句】粉身摧骨 (観念法門より)
『観念法門』(善導大師)より
「もしこの語を聞かば、すなはち声 に応じて悲しみて涙を雨らし、連劫累劫に身を粉にし骨を砕きて仏恩の由来を 報謝して、本心に称ふべし。」
『正像末和讃』にある「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」の出処。また聖覚法印師の表白文にも「粉骨可報之、摧身可謝之」とある。こちらは『尊号真像銘文』にも引文されてますね。こっちが出処かもですが、慈海はやはりこの表白文の背景に観念法門を思われてこの御和讃になったのだろうかと妄想を働かせて楽しんでます。表白文自体もきっと観念法門より聖覚法印師が引っ張ってこられたんでしょうけど。ちなみに通常は”粉骨砕身”といいますが、観念法門では身と骨が逆になっていて、御和讃もそれを踏襲されてます。
今年はここに行き着くためにウロウロしながら法句を辿っていた気がします。(わかる人には過去の一日一法句見返すと、アハハとなるかも。ならないかも。)来年もできるだけ書いていこうと思います。
臨池の技に耽るに非ず。ただ、信を仰ぎ仏恩を報ずるのみ。
なもあみだぶ
慈海 拝
//=== 転載ここまで 以下本ブログ本文です。
昨年の終わりくらいに、「一日一法句」というタグでできるだけ毎日、できないときは数日置きに、御聖教のお言葉を筆で書いていました。
慈海は物覚えが悪いので、いくら読んでもいくら憶えようとしても、ぼろぼろぽろぽろ忘れていくので、ではせめて書いてみればすこしは憶えるやろうか?と始めてみた習慣でした。
その日眺めていた御聖教の言葉を実際に筆をとって書いてみると、一文字一文字が「大きく」感じられます。いかに普段眺めている言葉の一文字一文字を惰性で見ているかがよくわかります。
今年に入って一月ほどこの「一日一法句」の習慣を休んでいましたけれども、また続けてみたいなぁと思います。これまではSNSにだけシェアしていましたけれども、このブログにも載せるようにしようかな。
法句、つまり法の言葉というのは、私達の日常の言葉、世俗の言葉とは違います。同じ道具としての言葉ではありますけれどもその出処が違うと聞かされました。
なんまんだぶ