ネコの家出

一緒に住んでいる白ネコは、隙を突いてすぐに家出をする。
慈海坊は車通りの多い道沿いにあるので、事故が心配なため、ネコ達を家からは出さないようにしている。それでもネコ達にしてみたら、風に揺れるヒゲの感触、心をざわつかせる草木の青い匂い、肉球をひんやりと濡らす地面の冷たさが恋しいのかどうかは知らないけれど、気を抜くと、家の中に姿がなく、脱走した形跡だけを見つけることがよくある。窓の隙間や、引き戸の隙間をこじ開けて、時には網戸を爪で引き裂いて、自由な外の世界に飛び出していく。
先日も白ネコが、玄関の扉がきちんと閉まっていなかったのを目ざとく見つけ、外に飛び出していった。気がついた時には家の中はもちろん、家の周りをぐるりと見回っても姿がない。心配だけれども、まぁ食事の時間になれば帰ってくるだろうと、高をくくっていたが、丸一日経っても帰ってこないので少し心配になってきた。
夜には冷たい雨が降りはじめ、凍えていやしないか、もしや怪我してやいまいかと、幾度と無く夜中に探しに出る。いつもいる場所を何度覗いても姿も気配もない。とうとう車にでも轢かれたのかもと、道路に血の跡がないか探したり、側溝を覗きこんだりするが、なんの形跡もない。
思えば、この白猫はもともとノラ猫であった。
海辺を散歩していたら、ノラのくせに人懐こく寄ってきて、怖がるどころか連れの背中に登ってきたのだった。
「きっと一緒に行きたいのよ」
うちでは飼えないよといくら言っても、連れがきかないので、しぶしぶ連れて帰った猫であった。
部屋に入れたその日から、まるでそれがすでに決まっていたかのように、物怖じすることも、嫌がる様子もなく、勝手気ままにくつろいで、気がつけばもう8年ほどになるだろうか、一緒に暮らしたのだった
一緒に暮らしている時間が、彼を慈海の家族にした。
ただの猫とはいえ、彼との思い出も多い。
「自分から出て行ったのだ、戻ってきたかったら自分から戻ってくる。彼の居場所は、彼が決めるのだ。慈海が閉じ込めておく道理もない。暖かくて、安全な家に閉じ込めておくことが彼の幸せなのだろうか。いわゆる動物愛護とかいうモラルで言えば、それが正しいのかもしれないけれども、そういった正義の言い訳は、実は慈海の傲慢さから出てくる考えかもしれない。命が安全な場所が安心な場所じゃないのだ。心地よい場所が、安心な場所ではないのだ。彼の居場所は彼が決めるのだ。彼の安心な場所は、彼にしか決められないのだ。帰ってきたかったら、彼の方から帰ってくる。そうしたら、また一緒に暮らせばいいじゃないか。もし死んでしまったとしても、彼の命に対して慈海がどうのこうのいう話じゃない。慈海はあの白い猫にさえ依存心を起こしているのか云々……」
そう考えよう。そう考えるべきだと、理性を懸命に働かせて、頭のなかでブツブツ自分を説得しようと試みる。が、それでも不安な気持ちは、心のなかでグログロとうずを巻いて押さえつけようがない。
たかが飼い猫。されど飼いネコ。
「恩愛甚だ断ちがたく~」の言葉通りかもしれないなどと、さらにブツクサ。
としていたところ、近所のおじさんとすれ違ったので、
「うちのネコみかけませんでした?」
と声をかけると
「さっきうちの庭にいたよ」と、意外な返事。
「えぇ!そ、それはどれくらい前ですか?」
「50分ほど前かなぁ。でも、もういないと思うよ。」
「一応覗いていっていいですか?」
そんなやりとりをしながら、近所のおじさんの庭を覗くと、大きな庭石の上に、まるで置物のようなとよく言われる喩えそのままに、チンと鎮座している白ネコが目に入った。まるで、そこの庭の主か、はたまた妖怪か。家の中では見たことのない、ある意味威厳のある姿で、静かに座っていた。
名前を呼ぶと、妖怪がゆっくりとこちらを見据える。
しかし、口を開け、ニャァと応えた時には、もう妖怪ではなくなっていた。
そろそろと庭石から降り、テテテと慈海の足元に走りより、脛におでこを擦りつけてくるので、それじゃぁ帰ろうかと抱きかかえ、暖かい慈海の家に連れて帰ったのだった。
「安心(あんじん)ちゅうのは、心の置き場所ちゅうことやな。不安であろうがなんであろうが、その不安な心の置き場所が定まることを、安心(あんじん)ちゅうんやろうな。」
と聞いた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
(『草枕』夏目漱石)
考えなしに虚勢は大きく意味なく角ばかり立てて、情に流され地に足つかず、意気地もないのに意地を張り、わかったつもりで、慈海は何にも身についてない。
心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す
(顕浄土真実教行証文類 後序)
心の置き場所。
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