「もったいない」ということ
寒の戻り。吹雪の夜だ。
最近の陽気に少しホッとして緩んだ体に寒気が堪える。腰が痛い。
先日のこと。
母が昔の歌のCDを通信販売で買った。毎月一枚ずつ送られてくるらしい。
「これ、どうやったら聴ける?」
と尋ねられ、あぁそういえば、うちにはCDプレイヤーがなかったなと思い出す。
手元のスマートフォンで調べると、まだ電器店はやっているようだった。母がその様子を見ながら、時代の移り変わりにため息をつく。
電器店にはたくさん音楽を聴くための機械が並んでいたが、母が一人で操作できるような、シンプルなモノは二、三種類しかなかった。その少ない選択肢のあいだを何度も往復しつつ、あちらを持ち上げてみたり、こちらのボタンを押してみたり、ぶつぶつと迷う母親であった。
「これでいい。」
やっと決まったようなので、棚から箱に入ったその商品を慈海が抱え、レジに向かう。
「無駄遣いやろか、でも歌聞きたいし……」
この期に及んでぶつぶつ言い出す母に、CD頼む前に考えなさいよと笑う慈海。
「そうね」
と、鞄からごそごそと財布を出しながら、母も笑う。
レジについて、「いくらやっけ?」と母が言うのを遮り、いいよ俺が買ったげると、慈海が財布を出すと、母はひどく驚いて、
「うそぉー!うそやろぉ?ほんとにー?」
と、まるで踊り出しそうなくらい喜んでくれた。
たった数千円で大袈裟なと思いながらも、その喜びように、ありがたいなとこちらもにやけてしまう。
家に帰り、母は、まるで宝物でも出すように、大事に大事に箱からそのCDレコーダーを取り出し、両手に抱えて居間をうろうろし始める。
なにをしてるん、はよ聴いてみね、と慈海がいうと、
「どこに置いたらいいやろか」
と、まだぐるぐる行ったり来たりする母親。
どうやら空いているコンセントを探しているようだ。
別にどこに置いてもいいやん。試しで聴くだけやし、と慈海が言うと、母は
「だってそんな、もったいないが」
と言う。息子に買ってもらった大切なCDレコーダーを、足元の床に直接置くなんて、粗末な扱いはできないと言うのだ。
その様子を見ていて、ハッとした。
これが、「お敬い」のすがた、「御恩報謝」のすがたなんやなと気がつかされた。
「現代の者は、どうもこの「御恩」ちゅう概念がわからんのかも知らん」と、いつも聞かされている。「受けたものに対して、単に取引感情で報いようというのが、御恩報謝ではないんやけどなぁ」と。
もったいないとか、おかげさまというのは、こういうことなんかと、母のすがたに教えられて、そっと なんまんだぶ と呟いた。
なんまんだぶ
【追記】
同行より、下記コメントがありましたので、一部抜粋して転載いたします。
恩には《施恩》と《受恩》の立場がありますが、浄土真宗ではひたすら受恩を論じるだけで施恩については一切論じることはありません。これを混乱すると恩という概念が仏と人との相対取引関係になってしまうでした。
称仏六字 即嘆仏 即懺悔
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ