「仏法はただ聴聞に極まれり」ということはどういうことであったか。

「慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ」
用事でお宅に寄った帰り、車に乗り込んだ慈海にお手製の漬物を渡しながらその方は、優しく微笑まれた。
ガンを患われているうえに難病指定の病まで併発し、立っているだけでも苦しいだろうにその方はよたよたと杖をついて、玄関の外にまで出て、慈海を見送ってくださった。

吉崎別院での御忌法要の為、長年病気の体を押してお手伝いをしてくださっている方である。この地に嫁いですぐのころは、つらいことがあると別院に来ては草むしりをしていたという。誰かに話すことも、言葉にすることさえもできないたくさんの胸の内の思いを「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……」とお念仏の言葉にして、こぼれる涙と共にこの境内にしみこませて行かれた方が、昔から人知れず無数にいらっしゃる。その方もこの地で蓮如さんの御教化を賜ったそんな念仏者の一人である。

「こんな体だから……今年は御忌にいけなさそうだわ。」
数か月前から電話でお話しするたびに、寂しそうにそうおっしゃっていらした。この日訪ねたときもまた、微笑みながらうつむいて、小さい声でそうおっしゃった。その姿を見て、口には出さなかったが、個人的にこのお宅にお参りに来れないだろうかと考えていた。そんな思いを感じられたのか、帰り際に「慈海くんの話聞かせてくれるか?慈海くんの話す法話が聴きたいんやぁ。」と、唐突におっしゃられた。

慈海は喋りがうまい方でもない。布教について学び研鑽を続けているわけでもない。心動かすような話術ももちあわせていない。教学もちゃんと学んできたわけでもないし、日々お聖教に頭を突っ込んでいるわけでもない。自慢できるような豊富な人生経験があるわけでもないし、物事を鋭く洞察できる目を持っているわけでもない。むしろサボり症でめんどくさがりで、その上覚えも悪く、乏しい人生経験に引き寄せて、この仏法を自分勝手に聞き、自分勝手に解釈して、それを叱られて、反省して、自信を無くしてばかりを繰り返している。

そんな慈海が話す法の話を聴きたいと、その方はおっしゃる。人一倍苦労を重ねて、挙げ句特にここ数年は大病と日々戦い続け、人の世の酸いも甘いも知り尽くされたかのようなそんな方が、である。

慈海であれば、そんなことが言えるだろうかと、帰りの車の中で考えていた。もし慈海が齢七十を超えたとき、自分の息子ほどの歳のものに、そんなことが言えるだろうか。たいして苦労もしていなさそうな、たいして勉学布教に長けたわけでもないものに「あなたの話す法を聴かせてほしい」と言えるだろうか。

今朝、その方が持たせてくださった漬物をカリカリとかじりながら、「法を聴く」ということを思っていた。蓮如さんは「仏法はただ聴聞に極まれり」と仰せになられた。ただ口に仏名をつぶやき、ただ聞いてきた話を自らの手柄のように人に語り、仏法者然とふるまい、念仏者らしいもののように思われることが、仏法を聴聞する念仏者の姿ではなかったはずであるのに、いつしか仏法がこの自分自身を表現し、他人と差別するためだけの道具になっていやしないか。そんな私であれば、きっといくら歳を重ねても、慈海のようなものにでさえも「法を聴かせてほしい」とは言えることはないだろう。

今年も、吉崎では蓮如上人御忌法要が始まる。蓮如上人の御遺徳をしのび多くの念仏者の方々と供に、この往生極楽の道を聴聞させてくださる法要である。

その蓮如さんご教化の形見の地であるこの吉崎で、日々蓮如さんの前でご教化を賜りながら、自分は何を聴いてきたのであろうかと打ちひしがれる。そんな、法の前に打ちひしがれた姿で、この慈海をそのままと仰せになる御恩の話を、これからもしていかなければならないのだろう。それもまた、聞かせてくださるお育てなのだろうか。

「一生聞法痴心未了」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば…」もっと慈海頑張ろうと思った今日の出来事の話。

今日は本願寺吉崎別院で、加賀両度講の報恩講がお勤まりになられました。
「両度講」といえば、御文章にもでてくる由緒ある御講です。広如上人の時代に一度廃絶してしまったようですが、おそらくこの両度講をこの地で復活させたものか、この地に加賀両度講という御講があります。大変多くの講員数を誇る御講ではありましたが、残念ながらここ数年、年を経るごとに講員の方々の高齢化が進んでいることもあって、この報恩講にお参りに来られる方もどんどん少なくなってきました。そして今年は、寂しいことですが、たった六人だけの報恩講でした。

吉崎別院の職員も、ご輪番様と参勤そして臨時勤務員という肩書の慈海だけの三人だけです。名いっぱい声を張り上げて、お勤めをしました。この両度講のお勤めの声が、この別院境内を超え、吉崎の地域も超え、越前加賀の国を超え、京都までも、いやこの日の本の国中に響けとばかりに、腹の底から声を出し切ったお勤めでありました。

寂しい報恩講とはいえ、今年もそれでも無事にお勤まりになったことにほっとしたところ、境内の老朽化した電気配線の検査をお願いしていた業者さんがいらっしゃったので、衣姿のまま境内に出て業者さんとお話ししていると、遠くから慈海を見ながらひそひそ話をしている家族連れのような方がいらっしゃいました。

「ようこそのお参りです」と声をかけると、なんとこの前の夏にも県外から参拝に来られた方でした。久々の再開をよろこびつつ、でもどうしてわざわざ遠いところからまたこの吉崎に来られたのかが気になってたずねると、前回本堂でご案内してお話ししたのが心に残っていたらしく、また行こうということになって来られたとのことでありました。

なんだかとてもうれしくなってゆっくりお話ししたかったのですが、業者さんとの話もあったり、ほかの寺務的なことも立て込んでいたので、じっくりお話しできなかったのが申し訳なかったのですが、代わりに、慈海の好きな蓮如さんの御詠歌をご紹介すると、またとても喜んでくださってお帰りになっていかれました。しかしその際に、「この前の夏に来たときは境内がすごく綺麗で感動していたのですが、きょうは少し荒れていて…心配していたんです」とおっしゃっていかれました。とても遠くから、「また来たい」といらしてくださったことにうれしくなりながらも、境内の荒れようを気にされていらっしゃるその声に、胸が痛みました。先日の台風で経堂の屋根が散乱し、また今年は雨も多く、それを言い訳に外の掃除が行き届いていませんでした。もっと頑張れたんじゃないか、もっと綺麗に出来たはずじゃないかと、反省もしました。とても申し訳ない気持ちになりました。

蓮如さんの御威光は、今もこの地に熱くひかりをはなっていらっしゃいます。その御威光は紛れもなく無数の念仏者の方々が必死につないできてくださったものでもあります。蓮如さんが身命を賭してこのわれらに伝えてくださった「後生の一大事」ということを、そして「浄土真宗」というカタチ、つまりお念仏をよろこび、後生をたずね、安心(アンジン)を沙汰しあうことができる集まりというカタチを、後世に残していくためであったことであります。それはまさに、報恩の思いがカタチとなった場所であります。

諸行無常のこのわれらの世界で、常ならざる者ばかりをよりどころとし、目先の茶飲み話にもならないことに終始して、仏恩を思うことさえもままならぬ日常を過ごしてしまいがちな時代かもしれません。ですが、それは今に始まったことではなく、蓮如さんの時代からもそうでありました。それでも、蓮如さんはこの地から、お覚りの智慧の光が常にこのわが身を照らしてくださっていることをお示しくださいました。

慈海ができることは、ただこの場所を守ることだけであったな。懈怠ないように、安心して気持ちよく、安心(アンジン)の沙汰を戴ける場所にしなければと、気が引き締まった今日でありました。

それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうへには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。

御文章四帖十二通より

なんまんだぶ

お秋廻りと母の痴呆と父の涙の話

今日は、当家竹内家の報恩講でありました。お手次寺の浄善寺様がお秋廻りにきてくださいました。

「お前も絶対に来てくれや」
と父に強く言われていたのもあって、慈海は吉崎別院でのご奉公半休をいただき、午後実家に戻りました。

実家につくと、父と母が喧嘩をしていました。むくれた母は家を飛び出し父はうだうだと文句を言いながら母を探しに出ていきました。

近頃、母は幻聴もあるらしく夜中に「誰かが仏間から歩いてくる」と訴えることがあるようにまでなったそうです。毎日母の様子を見ることはできていませんが、合うたびに「あれ?」と、そのアルツハイマーの痴呆の症状を感じることが多くなってきました。

着実に、母の脳は壊れていっています。刻一刻と母の脳は萎縮し、記憶する機能を失っていっています。

父と母の喧嘩の原因は、今日のお秋廻りでの準備でのことであったようです。母曰く「お父さんなんもしてくれん!なーんもせんと寝てばっかりいる!」とか。父曰く「手伝えば文句を言うし、手伝わんかったらこうや。もうどしていいかわからん…」憔悴しきった表情です。

祖母が往生してから、実家のお仏壇は母が面倒を見ています。難しいことはわかりませんが、仏様をお敬いする気持ちは強く、お仏壇はいつもピカピカにしています。いくら痴呆が進んでも、毎朝お仏壇を掃除し、お仏花の水を替え、御仏飯をお供えし続けているようです。それだけは忘れない。

それはまるで、祖母の姿のようでもあります。

今日のお秋廻り、お勤めが終わったあと役僧さんが「それにしてもお仏壇ピカピカですね」と声をかけてくださいました。たまたまその時母はお茶の用意で席を外していました。父は、その役僧さんの言葉を聞いて、必死に涙をこらえていました。

父の涙の訳はなんだったのでしょうか。

報恩講。
御恩を知らされる会座でありました。

今年も、当家の報恩講が無事勤まりました。
今日この居間の瞬間から、また来年の報恩講の準備が始まることであります。

それは、様々な思い、様々な苦悩、様々な悲しみ寂しさ悔しさ情けなさのなかで、お念仏よろこぶ日々がまたまた始まるということでもありました。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

一時停止無視して本線に突っ込んできた車とぶつかって事故を起こした話(お浄土往く前ってきっとこんな感じなんかなぁ)

交通事故にあいました。

タイトルのとおりですけれども、とりあえず誰も怪我はしていませんし、慈海もピンピンしています。

小雨の降る朝でした。コンビニに買い出しに行こうと車を出して100メートルほど進んだところでした。そこは駅近くで徒歩の人も自転車の人も多い上に、道幅も狭く、さらに交通量も多い通りでした。交差点に差し掛かり、カーブミラーを確認して横道も確認して、人の影も車の影もないのを確認しつつそのまま直進していったところで、左の横道から急に青い車が飛び込んでくるのが見えました。「わーーーー」って叫ぶんだね、ああいうときって。まるで普通。自分でもびっくりするくらい普通に「わーーーー」って叫びながらブレーキを踏み込んだ瞬間目の前が真っ白になりました。きっと青い車の影に気づいてから目の前が真っ白になるまでって、いわゆる「刹那」の時間くらい。ぱちんと指を鳴らすくらいの時間くらい。ほんとに一瞬という感じでした。

人間の感覚って面白いよね。目の前が真っ白になってからまるで時間を巻き戻すように車が衝突した衝撃を体が感じるんですよ。まるで思い出すかのように。昔、彼女が部屋を出ていったあとに誰もいないそのマンションの一室に入って、「あ、そうか、もう居ないんだったな…」っていう思い出をフラッシュバックのように思い出したときのように。まるで、そんな記憶の底のワンシーンが加速度的に再現されながら衝撃を実感してくかのように、慈海の体の認知機能がギュルギュル巻き戻りながら再生されていって、徐々にそれが今現在の出来事って頭では理解しつつ、でもなんかそれでもまだ夢を見てるかのような感じ。まぁ、そんな感じで、「ぶつかった!」という事実を、後追いのように認識していったわけです。

目の前が真っ白になったのは、エアバッグが作動してボンと膨らんだから。頭を打ったとか気絶したとかではなく、視覚的に目の前に「チャンとした(?)」白いものが膨らんだから、目の前が真っ白になったわけでありました。いや、比喩ではなく、ほんとに言葉通りに目の前が真っ白だったわけです。しゅーと音を立てて車の中に立ち込める白い煙がとても臭くて、「あ、爆発するんかな?燃える?俺燃えちゃう?」と頭をよぎりましたけどなんだか現実感がないままなので妙に冷静で、まわりを確認しながら、「携帯と財布、携帯と財布」と飛び散った荷物から携帯と財布を探しつつ、まわりを確認して車の外に出たわけです。

それにしても、なんなんだろうね。なんかずっと俺、相手の方が怪我したんじゃないかとかそういうのが心配で、車の外に出て相手を見たら女性だったもんでなおさら「血でてない?意識ある?」とかそういうの確認してたよね。でも、平気そうだったのでちょっとホッとして「急いでた?」ってのんきに聞いてんの。いや、車爆発するとかさっきお前焦ってたじゃん?てか、まだぶつかって数十秒くらいしかたってないぞ?とか脳内もう一人慈海が一人で慌ててんだけど、でもまぁ、変なもんでとっても冷静な気分。いや、端から見たら結構動転してる感じだったのかもしれないけど、自己認識慈海自身はすごーく冷めた感じで「どこに連絡しなあかんのやろ?あ、警察か?保険屋もか?それと。。。」とかそういうのも脳内更にもう一人慈海は考えてたりするの。なんだよ、脳内に慈海何人いるんだよ。ともかく、脳内慈海たちは理路整然とそれぞれの役割をそれぞれテキパキと連携していっていたようです。

そうそう、すごく親切な人がいてね、きっとその方も車に乗っていて目の前でこの事故を目撃したんだろうけど、車を降りて駆け寄ってくれて「大丈夫ですか?」と声かけてくださったのです。そんで慈海も相手も大丈夫そうなのを確認すると「私が証言しますから。あちらが一時停止無視して突っ込んできたのちゃんと目撃しましたから、証言しますからね!」と名刺までくださった。おかげで「俺は悪くない!あっちが一時停止無視してフンガー!」っていう、なんていうの?正義を声高に主張する脳内慈海が脳内シュプレヒコールを起こさなかったのは、よかったかな。ほっとしました。(あとで電話してお礼言いました。ありがとうございました)

でね、もう疲れたから、長文書くの疲れたからこの辺にしとこうと思うけれども、警察読んだり、事故検分(?)立ち会ったり、保険屋さんと話したり、近所の方に「おさわがせしてすみませんー」って頭下げたりしながら、例の脳内慈海の一人がね、ぶつぶつ言うてるんですよ、脳内壁の隅で。お浄土往く前ってさ、きっとこんな感じで「あっ!」って思ったらお念仏する間も、仏様のこと思うことも、いろんな感謝とか、いろんな後悔とか、いろんな懐かしさとか、いろんな寂しさとか、そういうのを感じることもないままに、気づいたら目の前に蓮の池が広がってるんかもなぁって。

その後、事故処理も終わり、車屋さんに事故車レッカーしてもらって、代車を借りて別院に帰り、何事もなかったようにいつも通りのいち日を終えていったわけですけど、あの事故のあと1時間後にね、祥月命日のご参拝のかたがいらっしゃって、読経しながらさ、さっきの脳内慈海がぼーっとおんなじことをお経様のリズムに合わせて繰り返すんですよ。これがさ、ほんとに最後にお釈迦さまのお説教いただくことになるんかもなぁとか、正座で座るのも最後かもしれんねーって。

「後生の一大事」ということをいつも聞かされてはいるけれども、きっと慈海はその瞬間まで、その一大事を一大事と思うことはないのかもしれないなぁと、また別の脳内慈海が、その脳内慈海にポツリというのですよ。

だからこその、今ここでの、なんまんだぶ なんやろうなぁ。

なんまんだぶ せんとねぇ。

なんまんだぶ

↑ 時々こういう光景を見かけるけど他人事だった。自分が当事者って感覚がなんだかなかったね。

↑ ぶつかったところがベッコリと。もしもう少しスピード出してたらこんなんじゃすまなかったかもね。

↑ 血のように見えるけれどもオイルだと思う。誰も怪我しなくてほんとよかった。

↑ エアバッグ膨らましたった!初体験!エアバックって火薬でふくらませるん?すんごく臭かったし車爆発するんかと思ったけど違ったので良かったよかった。

↑ まだ1年ちょっとしか乗ってなかったのに、ごめんよ…。すごくよく走ってくれて、吉崎と福井の往復とかすごく頑張って運んでくれたのに……。おかげでこの一年沢山仏法聞くためにあちこち足をはこべました。ありがとう。

最後に、みなさま、ほんとシートベルトは大事。シートベルトしてなかったら大怪我してたと思う。ちょっとそこまで行くだけだしーってめんどくさがることあるけど、それだめ。いつ事故るかわからんし、駐車場出る時に事故ることもあるわけですし。ほんと大事。交通ルール守って皆様もご安全に!

なんまんだぶ

忘れていくということは、どういうことなのだろうか

母がボケていく。まだ70代前半であるけれども、刻々と痴呆は進行して、すでに忘れたことさえも忘れてしまうようになってきた。

何かを見て、また何かを聞いて感じた、恐ろしいとか楽しいとか悲しいとかそういったことも、口からそれを言葉にした瞬間からすぐに忘れていく。いや、もしかすると、言葉にする前の、言葉になる前のその感情さえも、口から出す前に忘れていってしまっているのかもしれない。

そして、嬉しいか、嫌か、といったモヤモヤとした、なんとなく微かに残ったそれら感情の残骸だけが、まるで澱のように心の壁にこびり着いているかのように、それら感情の残骸に触発され、何に腹を立てたのか、何に喜んだのかも忘れたまま、また得体の知れない感情を、繰り返し繰り返し繰り返し作り出して、漠然とした情動に振り回され続けている。

しかし、そのことさえも、また忘れていくのだ。

母が感じた感情は、一体どこに行ってしまうのだろう。母が感じ、思い、考えた「それら」は、母の記憶とともに、消えて行ってしまうのだろうか。なかったことになってしまうのだろうか。

私はどうだろうか。いずれ、母と同じように忘れていくようになるのだろうか。いやもしかすると、もうすでに、忘れたことさえも忘れてしまっていることが、無数にあるのかもしれない。そう思うと、いいようのない恐怖を感じた。母は、常にこの恐怖と戦っているのか……。

そもそも、感情も思考も、全く同じカタチのままでこの頭の中、胸のうちにずっととどまっているわけではない。忘れてしまう、消えてしまう以前に、それら感情も思考も、刻々と刻々と他の思考や感情、そして無数にこの体の中に刻まれていく刺激によって、影響され、化学変化を起こし、分化し、統合し、再結合し、変質し、構築され、また分断されといったように、そのカタチを変え続けている。

いや、もっと言えば、その、今私が考えたこと、感じたことさえも、何かの刺激によって、無数の刺激によって集められ起きてきただけのものであったのだろう。一つの感情、不変の思考という、固定化された、変化も変質もしないそういったものは、なにもないのだろう。

忘れていくということは、どういうことなのだろうか。

それらの無数の関係性の循環が切れてしまうということなのだろうか。すべての関係性の中で紡がれてきた、まるで糸のようなその連続性が、ぷつりとそこで切れてしまうようなことなのであろうか。切れてしまった瞬間、すべての関係性はそこで消滅し、全てなかったことになってしまうのであろうか。

この宇宙の理が、この世界というものが、もしそうなのだとしたら、そんな空虚な世界を私が生きていて、生きていると思い込んで、いるのだとしたら、それは恐怖である。空しさという恐怖。これほど恐ろしいものはないかもしれない。もし地獄というあらゆる肉体的精神的な責め苦を無尽蔵に味わわされるようなそういうところがあるのだとしても、そんな地獄よりも恐ろしいことが、この「空しさ」という恐怖かもしれない。痛みも苦しみも何もかもが、無意味で、無意味という意味も無い、そしてそれが有るとも無いともいうことも無い世界に、この私は佇んでいるのだろうか。

だから、必死で自分の思考を言葉にし、感情を誰かに伝え、私はここにいる、私はこんな存在だ、私を見てくれ、私を知ってくれ、今この瞬間の私を世界中が知るべきであると、もがき続けている。誰かに知られることが、誰かに認められることが、唯一その「空しさ」という恐怖から逃れるすべであるかのように。しかし、それさえも、空しさの世界のなかでのことであるのだ。誰かに知られたとしても、その知られたこと、思われたことさえも、また空しいものでしかない。

消えて行くこの思考や感情、この「私」と思うアイデンティティは、どこに向かっているのだろうか。私が「私」と思うこの私は、一体どこにいて、どこに向かっているのだろうか。

これを、仏教では「無明」というそうである。

「なんか、私もうアカンのやわ……。なんかもう、何もわからんなっていく」
この無明に対する絶望を、母は漠然と言葉にする。

「お母さん。忘れてもいいんやざ。アカンなってもいいんや。私もきっといずれそうなるかもしれんけど、それまでは私はお母さんのことは忘れんし。そしてもし、私がお母さんのこと忘れた頃には、お母さん、もう先に仏さんになってるやろ。仏さんは忘れんからなぁ。絶対に忘れん。そんな仏さんになったお母さんが、この私のことを忘れんといてくれんから、今は忘れていいんやないか。」

しかし、この空しさに絶望しながら、その空しさを否定せず、空しいものともしない世界があるのだろう。無明を無明のままに照らすこの光は、一体何なのだろうか。

なんまんだぶ

 

# https://kuz.tumblr.com/day/2017/10/21 より転載

自由な時間

「生活の中での仏法ではない。仏法の中での生活です。」
以前、福井東別院さんでの暁天講座にて池田勇諦師はそうお話しされたそうである。

かつて蓮如上人も

その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

と仰せられたそうだ。その逸話は蓮如上人御一代聞書にある。ある方が蓮如上人に、
「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」
と申しあげたところ、蓮如上人はその方に、
「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」
と仰せになったという。

浄土真宗の門徒にとって、日々の暮らしの中での基点ともなるべき”たしなみ”といえば、毎日の日常での勤行であろう。朝起きて、顔を洗い寝間着を着替え、身支度を整え、仏間に向かい、お仏壇の扉を開け、仏様の周りに埃や汚れを見つけたらそれを掃除し清め、仏花の水を替え、御燈明を灯し、香を焚き、炊き立ての釜から湯気の昇るご飯を仏飯器によそい、自身の息がそのお仏飯にかからぬよううやうやしく頭上に掲げながら、そろりそろりと仏様の前にお供えしたら、背筋をのばして仏様の前に座るのだ。「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ … 」とお念仏をつぶやいて、仏様のお姿を仰ぐと「チーン チーン」と”キン”を二度鳴らして「きーみょーうむーりょーうじゅにょらいー ……」と正信偈のお勤めが始まる。これが、御開山聖人のお示しをいただく浄土真宗の門徒の一日の始まりではある。

この、浄土真宗門徒の日常勤行のカタチを始められたのが蓮如上人であった。文明五年(西暦1473年)にここ吉崎の地で、御開山聖人の顕された『正信念仏偈』そして『ご和讃』をわれらの日常の勤行『正信偈和讃』として定められたのであった。それまでは、浄土教の日常勤行といえば、僧侶による六時礼讃(一日に六度、それぞれの時間にそれぞれの礼讃という勤行。善導大師様の作「往生礼讃」)をお勤めするのが一般的であった。しかし、蓮如上人がこの『正信偈和讃』をわれら門徒の勤行として定めてくださったことで、われらの生活は「生活の中でたまに仏法を戴く」日常から「仏法の中での生活」に大きく転回したのであった。

朝起きて仏様の前に座り、仏徳讃嘆のお勤めをして今日一日が始まり、夕べには今日の一日もまた仏法の中での生活を送らせてくださったと、仏様のお徳を仰ぎながらお勤めをして床に入るのである。仏法から始まり、仏法に終わる日暮らしが、浄土真宗門徒の生活であった。

とはいえ、現代は言葉の通り”忙しい時代”である。毎朝毎晩、たった数十分であったとしても、なかなかこの「日常の勤行」をたしなむ余裕を持つことさえもできずにいるのが、この慈海である。テレビをだらだらとみる暇も、スマホを眺めて電脳世界に興じる暇も、酒を飲んで世間の話に花を咲かせる暇も、ぜい肉に変えるだけの飽食にかける暇も、枕を引き寄せて惰眠をむさぼる暇もあるけれども、ついつい「後生の一大事」に心をかける時間を惜しみ、メンドクサイだのジカンガナイだのと言い訳をして、お勤めがおろそかになるどころか、仏様の前に座ることからさえも逃げようとする。「簡単に手を合わせておけばいいか」「布団の中でお念仏しても同じこと」とうそぶいているうちに、怠惰はより一層怠惰を助長させ、そのうち手を合わせることも、挙句はお念仏を申すことさえも忘れていくのである。いずれは気が付けば、「生活の中でまれに仏法を思い出す」いや、「生活の中で仏法を戴くことなど無い」一生となりかねない。それがこの私というものである。そんな「私」に気づいた時、以前交わしたとある方の言葉を思い出す。

ほぼ毎朝、福井別院での晨朝勤行に顔を出されるその方に、ある時慈海はたずねた。
「何が**さんをそうさせるのですか?どうしてそこまで熱心にお参りすることができるんですか?」
慈海の祖母も、毎朝毎晩お勤めを欠かすことがなかった。口癖のように「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい」と、ことあるごとにお念仏を申された祖母であった。慈海がこの”念仏”というものに興味を示したのは、何をして祖母にそうさせたのか、何が祖母にお念仏をさせしめたのか、ということを思ったことがきっかけであった。だから、その方のすがたに祖母のすがたを重ねたのかもしれない。祖母に聞くことが叶わなかったその問いを、その方に投げかけたのかもしれない。

「何がそうさせるんですか?」
慈海のその問いを聞くと、それまでにこやかに微笑んでられたその方の表情が一変した。そして、キッと慈海の目を見据え、震えるような声でぽつりとこうおっしゃった。
「だって、ご本尊様が待ってなさるやないか……」
その方の目には涙が浮かんでいらっしゃった。慈海の歳の倍近く生きられた方がこんな若造の問いに涙を流してそう答えられたのだ。慈海はハッとして、何も返す言葉が出なかった。その真剣な表情と、ぽつりとおっしゃったその言葉の気迫に圧倒されたのか、気が付けば慈海の目にも熱いものがこみ上げていた。

夜更かししてしまった翌朝など、布団から出るのもおっくうで、おあさじが面倒と思う。体をシッカリ休めるのも大事などと言い訳をして温い布団の中により深く潜り込もうとする私がいる。そんな時「ご本尊様が待ってなさる」の言葉が頭をよぎる。唸りながら、うだうだしながら、ゴロゴロとしながら、ご本尊のお姿が頭をよぎる。そして結局、面倒と思う私を後ろめたく引きずりながら、渋々と布団から這い出るのだ。そして、ご本尊の前に座り「なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ … 」とお念仏をつぶやき、仏様のお姿を仰いでいつも思うのだ。「あぁ、今日もここに座らせてもろうた。慈海よ、よかったなぁ……」

このお勤めの時間ほど、自由な時間はない。面倒と思いながらもいざ座れば、この自由な気持ちに心が休まるのである。お勤めをすることさえも面倒くさがり、世事にかまけ、仏に背を向け、仏を裏切り、仏を忘れていこうとするこの慈海の日常ではあるけれども、それでも、このお勤めをしている間だけは、少なくとも慈海は仏様の前に座っているのだ。この慈海の口から出る言葉は、自分可愛さの言葉しか出てこない。自分を飾り、自分を大きく見せ、自分を慰めるような言葉しか出てこない。それでも、少なくともこのお勤めの間だけは、御開山聖人のお示しがこの口から聞こえてくるのだ。驚くことに、怠惰なこの私から、である。心の底から自慢できることも、誇れることも、褒められることもなにもない、真実も知らず、真実を知ろうともせず、自らの虚言に惑い、迷ってばかりいるこの私が、真実のひとかけらもないこの私が、決して「善人」とは限りなく程遠い私が、少なくともこの勤行の間だけは「善人」でいられるように思えるのだ。慈海が、私から解放されるひと時である。

朝のお勤めが終わると、今日一日の始まりでありながら、なんだかいつも、その日の仕事が済んだような気持になる。今日もまた、この私を、法の水にひたしてくださった。そして、夕べのお勤めが終わるとまた、今日一日この私が法の水にひたされていたことを思い出しながら、今日という私の一日を終えていくのである。

仏法の中での生活は、自由に生きることではない。心安らぐ生活でもなければ、自身の罪悪も煩悩も昇華されるような生活でもない。決して善人らしい生活でもなく、決して愚かさから逃れることのできる生活でもない。お勤めをすることが偉いわけでもなければ、精進された生活となるわけでもない。この私は、慈海のままである。何も変わることはない。一瞬たりともこの慈海が私ではなくなることもない。微塵も褒められ、讃えられるような生活でもない。けれども、そうであることさえも忘れてしまう私であるから、せめて、せめて、一日の始まりと終わりくらいは、自由な時間から始めさせてやってもよいのではないかと思うのだ。だって、蓮如さんがせっかくこの慈海に、そういう日常のカタチをこしらえてくださったのであるから。

なんまんだぶ