降りてみたらまたこの娑婆世界

 

車を走らせていたら窓からバッタが飛び込んできた。

急に飛び込んできた乗客に慈海も少々慌てたけれども、緑の草原を飛び回っていたはずがなぜか見慣れない景色に閉じ込められた状態になったバッタの方もびっくりしただろう。助手席の上をウロウロと歩くバッタを、運転に気を付けながらチラチラと眺めていると、なんだか可笑しくも愛おしい気持ちにもなった。

運転中なので手でつかんで外に出すわけにもいかず、自分で出て行ってくれたらいいなと窓をすべて全開にしたら、しばらく躊躇した様子を見せたあと、「ばたたたっ!」と窓から飛び出ていった。

再び緑の景色に戻った彼だか彼女だかは、ほっとしているだろうか。今起きた数分ほどの出来事が、まるで夢の中の出来事だったかのように思えているだろうか。それにしても、その夢から覚めた時には気が付けば元いた場所とは違った見知らぬ場所。いったい自分に何が起きたのかさえも分からないまま、また緑の草の中を飛び回っているのかもしれない。

如来様のご縁に「あう」ことは「遇う」という漢字を用いて書かれることが多い。

「遇」の字には”たまたま”とか”思いがけなく”の意味がある。だから「遇う」には単に「出会う」というだけではなく”思いがけなく会う”という意味があるそうだ。ちなみに部首にある「禺」は”両方から”という意味だそうで、「遇」の字には”両方から会う”という意味もあるようだ。*

出会いがしらに偶然、ひょっこりと出会うということ。そこには驚きがある。出会うことを全く予期しないもの同士が、ばったりと出会うのだ。まるで先日のバッタと慈海だ。バッタだけにバッタリ……(;’∀’)ゲフンゲフン…

如来様のご縁にたまさか遇って、作願の大船に乗せられて、降りてみたらまたこの娑婆世界であった。まるでお浄土参りじゃなかろうか。

そんなことをバッタが車から降りていった後にぼんやり考えてたら、楽しくなってまたお念仏が自分の口から聞こえてきた。それにしても、もしかするとこの私が如来の御名を「なもあみだぶつ」と口ずさんでいることに、如来様の方も、奇なるかな!と慌ててらっしゃるのかもしれない。

なんまんだぶ

吉崎の朝は、一切が大悲を演舌しているか

少し疲れがたまってきていたのか、なんだか今朝は体が重くて、掃除もあまりできず、おあさじの準備も「しんどいなぁ」と思いながらダラダラとしてしまいました。

お勤めも声を出しづらいし、足もしびれるし、いつものようにお参りの方もいらっしゃらないので、ぼんやりとしながらお勤めをしていると、「お勤めご苦労!」と元気な声で近所のおじさんが、栗の入った袋をもってお御堂に入ってきました。

「なんでも(どんなふうに食べても)うまいからな!栗ご飯もいいな!」

ぶっきらぼうに差し出された袋を受け取ると、おじさんの顔が朝日に照らされてツヤツヤしてました。早速仏様にお供えしましょう!と恭しく仏前にお供えをすると、ニコニコ顔だった表情が急にキリっとした表情になって、静かに頭を下げていらっしゃいました。

お勤めの続きをして、また振り返った時にはニコニコ顔にもどっていて、ご文章の話やら世間話やらでにぎやかなおあさじになりました。

おじさんが帰った後、お供えした栗をお下げしながら、まるでだらだらとした気分でおあさじをしていたのを見透かされたのかなぁと、申し訳ない気持ちになり、掲げている栗の袋がよりずっしりと重く感じられました。

もしかすると、仏様やら蓮如さんが励ましてくださっているのかもしれません。

栗を洗っていると、にょろにょろと栗の堅い皮を破って虫が這い出てきました。必死で這い出てくる虫の様子に「横超」の言葉を思い出します。慈海は堅い皮を破ることさえも這い出ていくことさえも考えもせんのになぁ。それにしても、これはうまそうな栗です。

台風が近づいているからか、湿った南風で今朝は少し温い青空です。おじさんが帰ってからはより一層静かに感じられる境内を、トンビがヒョリョリヨヨロロと鳴いて飛んでいきました。

吉崎の朝は、一切が大悲を演舌しているかのように思えるときがあります。その真ん中にいるのは、なにもしていない慈海ひとりでした。

なんまんだぶ

放光寺さんでの報恩講法要無事御満座

放光寺さんでの報恩講法要、きょうの日中法要(午前10時からの法要)をもって無事御満座を迎えました。

ちゃんと数えたわけではないですが、例年よりもお参りの方が多く、お御堂が少し狭く感じました。気のせいかな?

ご講師は、昨年と同じく三国町受恩寺住職、長尾先生でした。長尾先生は慈海と歳が近いこともあって、コーヒーだけで一晩語りあかせる(つまりシラフで)、数少ない法友の一人でもあります。軽快で耳にやさしい語り口、分かりやすくお取次ぎくださるので、うちの村の方々にもファンが多いです。

さて、今年の放光寺さんの報恩講が済んで、いよいよ秋本番だなぁって感じがしてきました。まだまだこれから予定に追われる時期がしばらく続きますが、それが落ち着いてきたころにはもう冬です。

仏事に追われる生活をしている自分が、ふと不思議に思えます。とある方が以前おっしゃっていた通り、ふと目を覚ますとスーツ姿で会社のトイレの中でお念仏ぶつぶつ呟いていた姿のままじゃないかと思う時があります。

吉崎に帰る車の中、夕暮れの北潟湖がとても静かで、やっぱり今まだ夢を見ているのかもしれんなぁという思いがはなれませんでした。

この夢が覚めたときに、自分はどこにいるのでしょうか。

なんまんだぶ

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なんまんだぶ #報恩講

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西の方角があるのは、なおありがたい

こうしてたまに外に出ると、普段ダレてしまった自分に気づいて、やる気が出る。

香川県徳勝寺様での御縁の後、引き続き佐賀県聞法寺様と円城寺様での彼岸会にてお取次ぎの御縁を賜った。香川県から佐賀県に移動し、三日間毎日両寺院様で一座ずつ、計六座の御縁。

佐賀県に入って二日目の朝。ホテルの部屋で朝の勤行。小さい小さい声でお勤め。まさに自分の口から自分の耳に聞こえるくらいの声の大きさ。それにしても、別院(吉崎もしくは福井別院)以外でのおあさじはいつ以来だっただろう。

一昨日は徳勝寺さまで、昨日は博多の萬行寺さまでおあさじいただけたけれども、今朝はホテルのベッドの上。なんだか変な感じがしてもったいない。声はひそひそ声だけど、逆に背筋が伸びます。

ご本尊を持ってくるのを忘れてしまって、激しく後悔。ちゃんと懐中名号様用意してたのにかばんに入れ忘れてた。だらしない……

仕方がないので自分でお名号を書いて壁に立てかける。せめて西に向かってとスマホのコンパスで西の方角を確かめる。

このお念仏の教えを聞き始めた頃
「極楽浄土は西にあるからな。西の方角を大事にせいよ。せめて一年間大事にしていると、西の方角がありがたくなる。」
と聞かされ、一時期コンパスを持ち歩いていつも西を気にかけていた時があった。自筆のお名号を壁に立て掛けながら、そんなことを思い出し、ちょっと自分が微笑ましく思える。

ほんとうに、もったいない教えをたくさん受けてきたなぁ。うれしい話をいっぱいいっぱい聞かされてきた。

お彼岸だしなぁ。西の方角があるのは、なおありがたい。

なんまんだぶ

 

今、ココの、この私が仏に成るという話

なんかに載せようと思っていた日常のこと。何書いているかわからなくなった、一昨年のはなし。facebookに書いたものを転載。

炎天の下、外掃除をしていたら声をかけられた。
この場所のことを簡単にご説明しているうちについつい仏様の話になる。声をかけられた方が徐々にうつむかれて、顔を上げたときには目に涙がたまっていた。「ずっと昔に亡くなったじいちゃんが、よくそんな話をしてくれた。」と手を合わせて行かれた。

その日の夕方、掃除を終えてシャワーを浴びようとしたところ、電話がなった。出ると、いつも良くしてくださっている方からであった。難病を発病されていた。「もうあかんわ」と泣きそうな声が携帯から聞こえてくる。「いままでずっと自分のことで泣くのを我慢されてきたでしょ。そろそろ、泣いていいんじゃないですか。」
そう話すと弱弱しく「そうね。ふふふ」と笑われた。

その電話と前後して今度は、日が暮れるころふらりと境内に入ってこられた方があった。近所の方である。最初は玄関先で世間話から始まり、日が暮れてからは会館に入って気が付けば深夜まで話し込んでいた。世間話だったはずが、その方の話は途中からお子さんの病気の話になっていかれた。慈海も泣いた。

普段は誰にも見せない顔を誰もが持っている。
誰かに自分を知ってもらうための顔でもなく、誰かに何かを伝えるための顔でもない。その顔は、自分自身にさえも、見せることも、知りえることもない顔であったりする。慈海にもそんな顔があるし、これを見てらっしゃる方にもきっとあるだろう。

そこに、「宗教らしいこと」を語るのは簡単である。いつも照らしてくださる仏さまとか、もっともらしいセリフでその場をごまかすことは簡単なことだ。責任を持たなくて良いから。無責任にもっともらしい言葉で、定義付けし、分別し、決めつけ、わかったような振りができる。

自分に自信がないときほど「仏教では〜」とか、「浄土真宗では〜」という話で、自己を欺瞞し、人様の苦悩を他人事にし、「私」が不在になる。仏教の話をしているのでも、浄土真宗の話をしているのでもない。今ココにある苦悩の話をしているのだ。今ココの、この胸を悩ませ、この身を煩わせる、思い通りにならないコト、わかっているけれどもどうしようもできないコト、そんなモノ・コトに対峙せざるを得ない、そんな理不尽さの話をしているのだ。

煩悩に対峙する道具に、このお念仏をしてもよいのであろうか。自己肯定するための矛にして、自己欺瞞のための盾にして、自己を正義化するのが、このお念仏の教えであったか。

矛盾を解決したいのではないのだ。ただ、その矛盾に身をやつし、心を沈め、自らがその矛盾そのものでありながら、それでも真実そのものとなっていかれたのが、仏の道ではなかったのか。

私の話だ。
今、ココの、この私が仏に成るという話を、慈海は聞いているのだ。いつか、何処かで、誰かが、なんかわけのわからん何かになるなんて話ではない。

なんまんだぶ

仏法者のすがた

今朝も雨音を聞きながらの晨朝勤行(朝のお勤め)であった。

中宗堂で御文章を拝読し、立ち上がるとお御堂の外を歩くものが見えた。小さいサビトラ柄の彼か彼女かは、雨に濡れながらゆっくりとした足取りで木陰に隠れていった。

殊勝にも朝のお勤めを聞いていたのかもしれない。御文章を聞き終わって、今日一日の生業(なりわい)に向かったのだろうか。

雨にその毛皮が濡れるのも厭うどころか、仏恩報謝にその身を浸す姿に、なんだか負けたなぁという思いになって、姿が見えなくなったその木陰に向かって手が合わさった。

この慈海というのは、仏様を敬う姿も、仏恩報謝のすがたも、いつも誰かの目を気にしていて「どうだ?俺はまじめな仏法者であろう?」と誰かに見てもらいたがっている。真剣な求道、熱心な聴聞、命がけの精進。そういった者として同行同侶に見られたいとばかり腐心し、人に見られる姿ばかりをはぢているのだ。

しかし、人知れず雨に濡れる姿も厭わず、だれに見せるわけでもなくひっそりと、軒の外からひっそりと、お勤めをされていたその彼か彼女かの姿は、仏法者のすがたどころか畜生道に身をやつされた姿であった。

今朝の御文章は四帖七通いわゆる「六か条」の御文章であった。その六か条のうちの一つに次の掟がある。

当流の念仏者を、あるいは人ありて、「なに宗ぞ」とあひたづぬること、たとひありとも、しかと「当宗念仏者」と答ふべからず。ただ「なに宗ともなき念仏者なり」と答ふべし。これすなはちわが聖人(親鸞)の仰せおかるるところの、仏法者気色みえぬふるまひなるべし。このおもむきをよくよく存知して、外相にそのいろをはたらくべからず。まことにこれ当流の念仏者のふるまひの正義たるべきものなり。

なんと、申し訳のないことだろうか。

なんまんだぶ

なぜ、母はあの時生きながらえてくれたのだろうか

交差点で信号が青に変わるのを待っていると、ハザードを点灯させた車の運転席から男の人が降りてきた。故障でもしたのかと様子を見ていると、その車の前で何かを拾うような仕草をしている。何度も腰をかがめては何かを拾い上げ、歩道の方に運んではまた車道に戻りと繰り返しているその手元をよく見ると、何か小さくて茶色い動くものが抱えられていた。

信号が青に変わり、車をゆっくりと前に進めると、歩道には大きなカルガモの母親と、小さなその子どもたちが落ち着かない様子でその男の人を見守っていた。どうやら道を横切るときに、歩道の段差を越えることのできなかった子ガモを、その男の人は母親のいる場所まで運び上げていたようであった。

車窓をあけると「ピヤピヤピヤピヤ」と子ガモたちが盛んに鳴き合っている。バックミラーをチラチラと覗くと、凛として首を高く伸ばしながらも、不安そうにその首を揺らしながら、我が子供が人に助けられる様子を見守る母親の姿が目に入った。

人が近づけば身の危険を思いその場からすぐにでも立ち去りたいはずだ。けれどもその恐怖を抑え、不安を押し殺し、我が子を敵か味方かわからない人の手に委ね、騒ぐ子どもたちから離れることもせず、じっと運ばれる様子を見守るしかできないその母の気持ちは、どのようなものであろうか。

何度も腰をかがめて子ガモたちを拾い上げる男の人の姿と、騒ぎながら母親の周りでうろつく子どもたちの姿と、その母の姿を心に残しながら、徐々に車のスピードを上げつつ、先日父からかかった電話のことを思い出していた。

晨朝のお勤めが終わったのを見計らったかのように父から電話があったのは数日前であった。朝から電話がかかるというのはよほどの用事だろうかと、不安を感じつつ電話に出ると「忙しかったかぁ?あはは、なんでもないんやぁ」ととぼけた父の声が聞こえてきた。

「なんでもないことないから電話してきたんやろ?」と言うと、父は「あははは、まぁ、ほんとに大したことではないんやけどな」と、声のトーンを落として、昨晩のことやけどなと話し始めたのは、予想していたとおり母のことであった。

「いろいろな、覚悟はしてるつもりやけど、昨日はな、ちょっと驚いたことがあってな…」ぽつぽつと話しながら、冷静さを保とうとしている様子である。よほどショックな事があったのであろう。

「お母さん、昨日の晩、シャワー浴びてくるわって風呂場に行ってな。まぁ、そんでしばらくしたら出てきたんやけど、こんなこというんや。”頭って……どうやって洗うんや?”って……。」

以前であれば声を荒げて「何いうてるんや?アホでねんか!頭の洗い方もわからんなったんか!?」と父は言いそうであったが、ショックを抑えながら「頭に湯かけてシャンプーでくしゃくしゃくしゃと洗えばいいんでねんかぁ?」と答えたそうである。母は「そやのぉ。なんでこんなこともわからんのやろ……」と落ち込んでいる様子であったらしい。

「そんだけでないんや。他にもな……」

きっと父もこの先どうなるのかが不安であったのだろう。洗濯の仕方がわからなくなったこと、お仏壇のお花の手入れができなくなったこと、いつもだったら何も考えず、意識もせずにしていたはずのことができなくなっている母の様子をいくつもいくつも話し始めた。

涙ぐむ様子でもなく、笑い話のように話すわけでもなく、淡々と話す父の声が少し心配になった。

波のように、母の調子が悪いときと良いときが訪れる。そして、波が押し寄せては引いてを繰り返しつつも少しずつ少しずつ潮が満ちていくように、良いときよりも悪いときの頻度が大きくなっていく。実家に帰って母の様子を見るたびに、口でははしゃぎながらも、なんだか目の光が弱々しく生気を感じられなくなっていくようにも感じる。それでもまだ、体は元気で歩き回ることも、道端であった人と「久しぶりね!」と(実際は誰だかわかっていないのだが)取り繕いながら元気であることを装うこともできるのだが、それも身に染み付いた条件反射的に口が動いているだけのようでもある。

そんなことを思い出しながら車を走らせていると、なんとなく仏様の話が聞きたくなった。運転中であったので、携帯に保存してある法話を探すのも億劫であったので、正信偈を暗唱しながらハンドルを握る。自分の口から御開山聖人の最高のご法話を聴聞する。少しずつリズムが乗ってきて、だんだん声が大きくなる。大きな声で正信偈の言葉を追いながら、母が自らの命をもって、この息子に見せ聞かせしてくださっているこの姿は、一体何なのだろうかと考えていた。

数年前、高いところから落ちて頭蓋骨を骨折し、母は一度死にかけた。当時東京にいて実家と連絡を絶っていた私は、そのことを知りながらも実家に帰ることも、連絡を取ることさえもしなかった。父から届いたメールに添付されていた、痛ましい姿でベッドに横たえられている母の様子を見ながら、もし母が今死んでも、きっと葬式に帰ることもしないだろうなと、マンションのベランダでタバコを吸いながらボンヤリと考えていた。

母は、あの時死ななかった。
もし、あの時死んでしまっていたら、今頃私はどのように母を思い出していただろうか。少なくとも、福井に帰る場所なんてなくなっていたであろうし、坊主になることっもなかったかもしれない。

なぜ、母はあの時生きながらえてくれたのだろうか。
生きながらえたからこそ、その分老いることの恐怖を今味わっているのだろうか。そこまでして、何を息子に教えようとしているのであろうか。

なんまんだぶ