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聞見会

お念仏の会

口耳四寸記

「うらは知る必要なし」

2014年12月4日 by 慈海

定期的に繰り返しているけれども、不調で動けなくなる。
不摂生故にと怒られそうだけれども、来てしまう波はしょうがない。
少し復活。

復活してくると、とたんに歯が痛くなってきた。
歯医者も行かねば。

「浄土真宗は難儀やねぇ。念仏しても人は苦しむ。」
そう親しい人に言われ、苦笑いするしかなかったけれども、それに「苦のままでいられるのが云々」とか、「苦しむ人がいるから念仏が云々」いう講釈は、薄っぺらく感じる。

称うれば、われも仏もなかりけり、唯なむあみだぶつ。念仏はどんなご利益あるのやら、狸爺は知らないけれど、出るにまかせて唯なむあみだぶつ。なむあみだぶつが知って居るから、うらは知る必要なし。
(阿呆堕落偈)
*「うら」=福井弁で自分を指すことば

と聞いた。
越前の五郎松という爺さんがそういいなさったらしい。

ああ、歯が痛い。歯医者に行かねば。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 阿呆堕落偈

「おそろしい人」「かわいらしい人」

2014年11月30日 by 慈海

こういう話を聞いた。

あるとき、お説教でお坊さんが『入正定聚(にゅう・しょうじょうじゅ)』の話をされたそうだ。
それをお聴聞されたおばあさんが、お説教のあと、そのお坊さんに言うのである。
「はぁ、ごえんさん(お坊さんの意)、こりゃぁまぁ、あれやのぅ。大豆が豆腐になるちゅうはなしですわのぉ。」
それを聞いたお坊さんは、このおばあさんが何をおっしゃっているのかさっぱりわからなかったそうである。

また、こういう話も聞いた。

ある、布教大会(リレー形式で布教使のお坊さんがお説教をする大会)でのこと、ひと通り布教使の方々のお説教が終わり、では何か質問など無いでしょうかとなった時、お聴聞されてたおる爺さんが
「この先生と、この先生が、さっき『お浄土にかえる』とおっしゃってらしたけど、御開山聖人はどこでそんなことおっしゃってるんですかの?」
と質問されたそうだ。

さらに、こういう話も聞いた。

あるとき、お坊さんがお説教の場で、自己紹介から、世間話になり、本題の仏法の話になったところで「~と、私は思うんです。」とおっしゃったそうだ。
その途端、お聴聞されてた方々の一人が
「ごえんさん!わたしらは仏さんの話を聞きに来たんや。あんたの話やらあんたの考えを聞きに来たんちゃう!」
と、そのお坊さんを講台から引きずり下ろしてしまったそうだ。

もうひとつ最後に、父から聞いたこんな話も思い出した。

慈海の父がまだ若かった頃、使いで親戚の家に行ったそうだ。
玄関を開けようとすると、台所の方から大声で怒鳴り合うような声が聞こえる。その鬼気迫る様子に、玄関を開けるのが怖くなり、そのまま踵を返して家に帰って、母親にそのことを伝えたそうだ。
すると、母親(慈海からすれば祖母)は
「あぁ、それは後生話してるんや。」
と、別に驚くことでもないという返事が返ってきて、父は、変なこともあるもんやなぁと思ったそうだ。

浄土真宗の門徒衆には「おそろしい」人が多い。
ここで言う「おそろしい」人というのは、決して暴れて人を殺しかねないとかいうような「おそろしさ」ではない。見据えている世界が違うのだ。

その反対に、越前のこの辺りでは、時々「かわいらしい」という言葉が、侮辱の意味を含んで言われることがある。
世間知らず、モノ知らず、という意味合いが含まれているからだ。

いつもニコニコと、「かわいらしい」顔をして、実は「おそろしい」人というのはよくいる。

蓮如さんはこう聞かせてくださった。

たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。

有名な『八万の法蔵』のお文(ご文章)の中の一節だ。

何百何千とお聴聞を繰り返してきた門徒の爺様や婆様が、今日も痛い足を引きずってお寺に参る。
それを年寄りの遊び場所と笑う人もいる。
「いっちょジジババ泣かしてくるか」と演芸を披露しに講台に上がる人もいる。
何もわかってないもんに、丁寧にわかりやすくこの高尚な教えを説いてやろうという人もいる。

爺様婆様は、今日もニコニコと、いい話やった、いいごえんさんやと、皺々の手を合わせて、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ と、癖になったお念仏をつぶやく。

浄土真宗だけではなかろうか。
まるで禅宗の高僧でも舌を巻くような、こんな「おそろしい」人がゴロゴロといるのは。それも、達観した様子もなく、俗の姿で、まるで凡夫そのまんまで。

今の話ではないのだ。
後生の話である。

ここ数年や数十年の話ではないのだ。
今生のあと、どうなるかという話である。

「あんた、覚悟はいいか?」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: お文, ご文章, 八万の法蔵章, 後生話, 正定聚, 還浄

藁までとれた

2014年11月23日 by 慈海

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今日は放光寺さんでの冬の尼講があった。

村のおばあちゃん方が集まる。中には、それこそ文字通り、這うようにしてお参りに来られる方もいらっしゃる。
天気の良い、いつもより暖かい日だったとはいえ、それでも冬のこの時期、わざわざお寺まで足を運ばれる村の方々の、原動力はいったい何なのであろうか。
有難い姿である。

ご住職のご法話。
『念仏者としての生き方』というお話であった。
厳しい言葉が並ぶ。なかなか難しい生き方だ。
お聴聞しながら、よく聞かされている話を思い出す。

「米とろうと思うたら、藁までとれた」と聞いた。
“現生十種の益(げんしょうじゅっしゅのやく)”の話だ。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
(顕浄土真実信文類 > 経釈文自釈 > 現生十種の益)

「これな、よう気を付けて読んでみ。おかしいと思わんか? いうてる順番が変やろ?
普通に言うなら、”かならず現生に十種の益を獲”て、その後に”横に五趣八難の道を超え”るんやと思わんか?
これな、きっと御開山は言いたいこと先に言うてまう癖があったんやろうな。まぁいうなら、筆が滑るんやろう。大事なことを先にいうてまうんやろうなぁ。
たとえて言うならな、昔の坊さんはうまいこと言うたなぁ。
“米とろうともったら、藁までとれた”
ちゅうお説教された方いらっしゃったなぁ。
今になってな、あぁ!あの坊さんこのこと言いたかったんか!って驚くなぁ。」

つまりは、こういう話だ。

藁は藁で、縄を編んだり、燃やして灰にして肥料にしたり、まぁ、藁も使い道は多い。
けれども、その藁を取るために、農家の方々は米を育てているわけではない。米をとろうとしたら、付随的に藁もとれるわけだ。

お念仏を称えて、お念仏をこの耳に聞くちゅうことは、生死(しょうじ)を超えていく、往生極楽の道であった。
その往生極楽の道を聞いた今、この現生で、十種の益を獲ているのであった。

普通に言えば、念仏称えたら、この娑婆で十種の益を獲て、極楽に往生していくのですよ、という話だ。それでは、とろうとしてるのは、藁であったか、米であったかわからんようになる。

綺麗に生きて、綺麗に死んでいくのが、お念仏の教えではなかった。
汚く、醜く、みっともなく、情けなく生きて生きて生きて、浅ましいこの身と、愚かなこの心に、厭いつつもしがみついて、しがみついて、しがみつきながら、畳をかきむしって、きっと慈海は死んでいくのだろう。

それを、仏さまは、なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ とほめてくださるという。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 尼講, 往生極楽の道, 放光寺, 現生十種の益, 顕浄土真実信文類

王道

2014年11月23日 by 慈海

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25日(火)から始める『スペースおいち』さんでの勉強会の準備をしている。

母に手本を頼むと、久々の大筆に苦戦しながらも、とりあえず最初の一枚分だけ書いてくれた。

そういえば、慈海も最近筆の練習してなかったなと、数ヵ月ぶりに臨書をしてみた。綺麗な字を書くのは苦手だけど、紙の上に擦れる筆の音を聞くと、気持ちが落ち着く。ふと薫る、墨の香りがまたいい。

「本物のアドリブちゅうのは、もう一回やってみいといわれても、おんなじアドリブができるもんや。適当にやることがアドリブではねぇぞ。」と聞いた。

先日もこのブログで書いた「手に入ったもんは手放しで話ができる」というのも、同じことだろう。

最初はただ楽しくて好き勝手に筆を走らせていたが、臨書の本を買って少し練習してみたら、ただ字を書くだけのことの、その基本がいかに難しいかということを思い知った。そして、きっと基本をもっときちんと押さえられるようになったほうが、筆字はもっと楽しくなるのだろう。

ずいぶん昔、志村けんさんがインタービューに答えて

「ベタなことが一番難しくて腕が必要だ」

というようなことをおっしゃっていた、という記事を読んだ。だいぶ昔の記憶なので、思い違いもあるかもしれないが、確か「受け手が予想した通りのことをして笑わせる方が、お笑いの腕が必要だ」というような話だったと思う。

一風変わったこと、奇をてらったことよりも、実は王道こそが、その技能をもっとも試されるのかもしれない。

逆に言えば、王道を歩むだけの力がないことを誤魔化すために、奇をてらったことに走ってしまう、ということもあるのかもしれない。

このお念仏の教えは、凡夫がすくわれるという教えと、仏さまが仰っているらしい。であれば、今慈海は、大乗仏教の王道を歩まされているのかもしれない。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 勉強会, 正信偈, 正信念仏偈, 王道, 筆

ありがたくもないものを

2014年11月22日 by 慈海

月忌のお参り先で、珍しく若い息子さんが仏間に顔を出されていた。

慣れてきてしまった慈海の読誦する声の後ろから、たどたどしくも大きな声で一緒についてくる声が聞こえる。

お勤めのあと、いつも短い法話を取り次ぐのだけれども、この日のお取り次ぎはしんどかった。

目の前に自分が座ってるような気がしたからだ。

必死で見よう見まねで真似をして、それも最近こなれてきた。それが見透かされている気がして、歴史の話に終始した。しゃべっていて、しゃべってる本人がくそつまらんと聞いていた。「しばらく法の話はせんほうがいいかもしれない。」そう思い始めていた。

ありがたいとも思っていないものを、ありがたそうに語るのは嘘だ。ありがたくないなら、ありがたくないというのが本当だろう。

「手に入ったもんは、手放しで話ができる」と聞いた。

「手に入ってないもんの話をしようとすると、話を作るようになるぞ。それは妄語やぞ。お説教で嘘は絶対アカン!お前はそれをやる。」とも聞かされた。

お取り次ぎのあと、お茶を出してくださり、しばし世間話。そのうち、お店をやっているお宅なので、先程の息子さんと二人きりになる。すると、質問をされた。

「さっきのお経の一番最初に『帰命』ってあったけど、前から気になってたけど、これってどういう意味?」

“疑問”というのは素晴らしい。同じような疑問から、慈海も始まったのだった。初心を思い出す。

さっきまで、法の話がしんどかったはずなのに、気がつけば小一時間語り合う。

法の話は、やっぱり楽しい。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 帰命, 月参り, 月忌, 法話, 疑問

今年も「お秋回り」が来た

2014年11月19日 by 慈海

越前のこの辺の浄土真宗の家には、この時期になると、菩提寺の住職様が「お秋回り」にいらっしゃる。

各家庭で「報恩講」の法要を行う習慣で、いってみれば、キリスト教さんにおけるクリスマスのようなものかもしれない。

事前に、仏間も綺麗にして、お仏壇もお磨きして、お仏華も新しいものをお供えして、準備を整え、当日には家族みんながそろって、少しいい服を着て、住職様がいらっしゃるのを待つのだ。

年寄りはもちろん、子供も神妙な面持ちで正座を我慢しながら、訳のわからない読経が終わるのをじっと待つ。
見慣れない坊さんが、聞きなれない節でなにかゴニョゴニョ言っている。

お勤めが終わったら、父も母も丁寧な言葉遣いでお坊さんを見送り、やれやれ今年も済んだなぁとリラックスした表情で、片付け始める。

その日の食事は豪勢なもんじゃなく、精進料理で、なんだか子供の口にあわないけど、文句を言うと、贅沢なこと言うもんでねと、ばあちゃんが怒るので、大人しく油揚げをモシャモシャ頬張る。

そんな風景は、今ではもうなくなってしまったかもしれない。

また今年も坊さんが集金に来たと影で言いつつ、年寄りが死んだらもう頼まんとこうと言うてるところも多いだろう。

子供はそんな会話を聞きながら育つ。

もう四半世紀くらいしたら、完全に消え去る習慣かもしれない。

そして、今「葬式も仏事も、習慣でやってるだけ。意味はない。」といわれているその習慣自体が廃れ、形だけでも残っていた「生死を越えていく言葉」に触れる機会は消えていってしまうのかもしれない。

今日は、慈海の家にも「お秋回り」がいらっしゃった。

父もそれに合わせて帰福し、久々に父と語らうことができた。とはいえ、偉そうなことを言いながら、仕事が忙しく、慈海は会座に参列しなかった。

普通なら、このブログで、どんなに忙しくても大事な御縁ですから、是非参加すべき!とか大声で言いたいところだけれども、かく言う自分自身が、仕事を理由に参加しなかった。

家に帰ると、父と母がメモを残していた。

「めったに無い機会だから、三人で食事に行こうと思っていたけど、帰るのが遅いようなので、先に二人で食事にいって来ます」

『勤め』を果たしていないように思う。

少しく落ち込みながら、師に電話したら、「最近いやらしい”坊主”になってきてる。」と厳しい言葉。

“手に入る”のはいつだろう。なんだか、もう一度六道一回りせんと、あかんのかもしれん。

弥陀仏本願念仏
邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: お秋回り, 報恩講, 驕慢

親不孝

2014年11月17日 by 慈海

父が帰福した。
二日ほどしか滞在していないので、確認しておくこと、相談しておかなきゃならないことなど、じっくり語り合う。

祖母の思い出話から、自然と仏様の話になり、せっかくだから御法話のDVDでも観ようかとなる。
先日お浄土に移住された梯和上の御法話を、父母とともに御聴聞。

もしかつての自分がタイムスリップして、今この光景を目にしたら、何が起きてるんだと信じられないだろう。
まさに、「有難い」ひとときだった。

御法話が終わり、また祖母の話や昔話が始まる。あの時はこうだった、この時は実はこんなだった。何度も聞いた話。慈海の耳に痛い話も多い。そのうち、父がいつものようにポツリポツリと話始める。

― おれは親孝行しなかった、最後死に目にも会えんかった、なんてひどい息子だったか。俺も自分のことに一生懸命だったのだけど、それもいいわけにはならん。

そう言って目に涙を浮かべる。

「父ちゃん、仏さんの話でな、昔ある人が親殺しをして、結果地獄に堕ちるのが恐ろしゅうなって、心身共に病んでしまったんやと。そりゃぁひどい状態で、身体中かさぶただらけで熱もひどいわ、まぁえらいことやったらしい。そんでな、その人になえらーいお医者さんがきてな、

善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生を救く。

一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。

無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。
慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。*

て言うたんやと。
つまりな、慚愧あるからこそ、人なんやなと。慚愧があるちゅうことを誉めてなさるんやわ。そんでな、お釈迦様がいらしてお説教なさるんやけど、そんだら、この人、

世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず*

って、地獄に行っても苦にしない!と、菩提心を起こされたんやと。お釈迦様は、仏様ちゅうのは、やっぱとんでもないのぉ。
『慚愧なき真宗は外道や』と聞いたよ。まさに今お目当ての真っ只中やん。」

と言うような話をしたら、ほうか、ほうかと、父がうなずく。

親不孝ものと、親不孝したと悔やむその父との会話。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 


*『顕浄土真実信文類(末)』 抑止門釈 難治の機 梵行品

 

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 慚愧, 菩提心, 親不孝, 顕浄土真実信文類

丁寧な言葉

2014年11月16日 by 慈海

「もっと自分の人生、丁寧に生きなさいな」

そう言われたこともあった。
何もかもが中途半端で、足が地についていないような、ふわふわとした生き方しかしてこなかった慈海を、きっとその方は見ていられなかったのだろう。
今になって、ふとその言葉を思い出して、あぁ変わらないなと落ち込むことがある。

丁寧に生きてこなかった。
丁寧な言葉を使ってこなかった。
丁寧にモノ・コトを考えてこなかった。

「丁寧」という言葉の語源は、

昔、中国の軍隊で、警戒や注意を知らせるために鳴らす楽器を「丁寧」といった。
そこから、注意深くすることを「丁寧」と言うようになり、細かい点まで注意が行き届いていることや、礼儀正しく手厚いことも意味するようになった。

だそうだ。(語源由来辞典サイトより)

丁寧な生き方をしてこなかったというのは、つまり、危機感がなかったということなのか。注意力が散漫だったということか。
まぁ、どちらも同じことか。

慈海の母は、素人にしては綺麗な字を書くので、たまに賞状や看板などを書いてくれと頼まれている。
そんな母に、「あんたの字は、丁寧じゃない。」とよくたしなめられる。
そしてまた、「綺麗な字っていうのは、丁寧に書けばいいのよ。丁寧に書いた字が、綺麗な字になるの。」とも聞かされる。

字は体を表す、といったところか。

今朝のおあさじの途中、ふと、お念仏が警鐘に聞こえた。

おとすまい おとすまい

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 丁寧

だるまストーブに火が入る

2014年11月14日 by 慈海

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十年以上前から使っているだるまストーブ。錆びて汚れて芯も古くなって火がつきにくくなった。

先日から急に寒くなったので、母がそのボロボロのだるまストーブを引っ張り出してきた。

帰ってくる慈海を気遣って、火を入れてくれていた。暖かい。

ストーブの上にかけられたやかんが、チリチリチンチンと音を立てている。

そんな冬らしい音を聞きつつ、手をあぶりながら、隙間からストーブの中を覗き、ほわほわと揺れる炎を眺めるのが好きだ。

「ある男が、七輪を必死にパタパタと扇いでいたんやと。しかし一向に火がつかない。諸仏がその男の横を通りすぎた時、七輪の中を覗きこんだんやと。そしたらな、なんとまぁ、火種が入っとらん。火種がねえと、そりゃぁいくら扇いでも、火はつかんわなぁ。諸仏はあほやなぁ、そりゃいくら扇いでも無理やと、過ぎ去ったときにな、阿弥陀さんがやって来たんやと。でな、同じように火種の入ってない七輪を覗きこんで、まぁ、そうかぁ、火種がなきゃぁ火はつかんわなぁと、あわれんだそうや。そうか、そんならな、わしが火種となってやろうと、男が必死で扇いでいる、七輪の中の真っ黒の炭団の中に入っていかれたんやと。」

以前聞いた、そんな話をふと思い出す。

今であれば、ストーブやろか。

灯油をタンクいっぱいにして、芯をいくら出しても、火はつかん。叩いてみても、揺すってみても、冷たい鉄のかたまりのまま。冷えた手を暖めることも、やかんの水がチンチンの湯になることもない。

阿弥陀さんがそんな慈海を見かねて、マッチになって頭を擦って、火種となってストーブのなかに飛び込んだ。

誰にも見えん心の中。真っ黒な炭団の中に火が点る。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 仏性, 信心

「一勘弁、二働き」

2014年11月13日 by 慈海

スマートフォンから、facebook と、twitter のアプリを削除した。

時間がない、忙しい、とグチりながら、一日の時間の使い方を振り返ってみたら、この小さな機械を片手に、小さな画面を眺めている時間のなんて長いことか。

この機械の青い光から、数センチ目線をずらすと、そこに、気持ち良さそうに眠るネコの寝顔があった。

「あぁ、俺は本当に見るべきモノを見ていないのかもしれない」

と、少し慌てた気持ちになったのだ。

ということで、スマートフォンを衝動的に放り投げ、またそれを拾い、facebook と、twitter を削除した。

「一勘弁、二働き」と聞いた。

生活が苦しいなら、まず働いて稼ぎを増やす前に、無駄な支出を見直しなさいよという、いわゆる昔の人の知恵だろう。

これは、お金のことだけじゃない。時間の使い方にも言えるかもしれない。そう思ったわけである。

機械あれば必ず機事あり、機事あれば必ず機心あり

荘司の言葉だと、数年前に教えてもらった。ああ、この事を言いたかったんやなぁ。

それにしても癖というのはおそろしい。気がつけばそのスマートフォンを探し、意識せずにfacebookのアプリを起動しようと指が動いていて、ハッとなる。

「薫習(くんじゅう)」とはよういうたなぁ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 一勘弁二働き, 機事, 機心, 荘司, 薫習
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