越前のこの辺の浄土真宗の家には、この時期になると、菩提寺の住職様が「お秋回り」にいらっしゃる。
各家庭で「報恩講」の法要を行う習慣で、いってみれば、キリスト教さんにおけるクリスマスのようなものかもしれない。
事前に、仏間も綺麗にして、お仏壇もお磨きして、お仏華も新しいものをお供えして、準備を整え、当日には家族みんながそろって、少しいい服を着て、住職様がいらっしゃるのを待つのだ。
年寄りはもちろん、子供も神妙な面持ちで正座を我慢しながら、訳のわからない読経が終わるのをじっと待つ。
見慣れない坊さんが、聞きなれない節でなにかゴニョゴニョ言っている。
お勤めが終わったら、父も母も丁寧な言葉遣いでお坊さんを見送り、やれやれ今年も済んだなぁとリラックスした表情で、片付け始める。
その日の食事は豪勢なもんじゃなく、精進料理で、なんだか子供の口にあわないけど、文句を言うと、贅沢なこと言うもんでねと、ばあちゃんが怒るので、大人しく油揚げをモシャモシャ頬張る。
そんな風景は、今ではもうなくなってしまったかもしれない。
また今年も坊さんが集金に来たと影で言いつつ、年寄りが死んだらもう頼まんとこうと言うてるところも多いだろう。
子供はそんな会話を聞きながら育つ。
もう四半世紀くらいしたら、完全に消え去る習慣かもしれない。
そして、今「葬式も仏事も、習慣でやってるだけ。意味はない。」といわれているその習慣自体が廃れ、形だけでも残っていた「生死を越えていく言葉」に触れる機会は消えていってしまうのかもしれない。
今日は、慈海の家にも「お秋回り」がいらっしゃった。
父もそれに合わせて帰福し、久々に父と語らうことができた。とはいえ、偉そうなことを言いながら、仕事が忙しく、慈海は会座に参列しなかった。
普通なら、このブログで、どんなに忙しくても大事な御縁ですから、是非参加すべき!とか大声で言いたいところだけれども、かく言う自分自身が、仕事を理由に参加しなかった。
家に帰ると、父と母がメモを残していた。
「めったに無い機会だから、三人で食事に行こうと思っていたけど、帰るのが遅いようなので、先に二人で食事にいって来ます」
『勤め』を果たしていないように思う。
少しく落ち込みながら、師に電話したら、「最近いやらしい”坊主”になってきてる。」と厳しい言葉。
“手に入る”のはいつだろう。なんだか、もう一度六道一回りせんと、あかんのかもしれん。
弥陀仏本願念仏
邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ