コンビニ坊主

デイサービスでのご法話お取次ぎ。

雪のため早めに出たら早くつきすぎてしまったので、時間つぶしのため近くのコンビニへ入った。

友人が店長をやっているコンビニで、タイミングよくその友人がカウンターの中にいた。

「おー久し振りだねー!元気だった?」
の挨拶から始まる悪態の応酬。
「この生臭ぼうすめ!」的なイジリを華麗に受け流し時には逆襲しながら、しばし雑談。

「じゃぁそろそろ行くわー」と出たところで「ちょっとちょっと」と呼び戻される。

「彼女がさこの前もらった”大丈夫”をお守りにもっててさ。話してやってよ!」

店長をやっているその友人には、以前「書いてほしい」と言われて『大丈夫』と筆で書いた色紙をプレゼントしていた。

たまたまその時コンビニで同じシフトにはいっていたアルバイトの女性が、同じく『大丈夫』と刺繍されたお守りを身につけていたらしい。

「ぜひその”大丈夫”の意味聞かせてあげてよ」

とのことなので、カウンター越しに少しだけお話をした。

「ね?仏教って面白いでしょ?」

そう語る慈海の言葉に、そのアルバイトの方は、ぽかんとした顔で「へえーーーーーー」と応えられた。

少し”コンビニ坊主”だった頃を思い出しながら、ああ、でも今も同じかもなと嬉しくなって、吹雪の中、デイサービスのご法話に向かった。

いつも思うことだけれども、慈海は自分自身には全く自信というものが持てない。

仏教の話を聴き始めたのも三十半ばからだし、教学といったものも専門的なところでしっかり学んだわけでもない。本を沢山読んでいるわけでもないし、勉強もサボってばかりだ。もともと憶えが悪く、ちょっと読んだり聴いたりしても聴いたことさえもすぐに忘れてしまう。じっくり何かに取り組む性分でもないし、サボり症で、志してもすぐに挫折してきてきた。何かを成し遂げた、大成した、という経験が無いのだ。大学も中退し、仕事も中途半端で都落ちして、僧侶の格好に、そういったどうしようもしなかった自分自身から逃げながら生きている。

慈海は、自分自身にはかけらほどの自信をもてるはずがないのだ。

そんな慈海が語れる話というのは、聞いてきた仏さまの話しかなかった。こんなどうしょうもない慈海が、慈海と名乗るまでにさせしめた話だ。

慈海が、この身で聞いた話だけは、自信を持って話せる。
なぜなら、それは慈海の話ではないからだ。

吹雪の中、吉崎にお参りに来られる方があった。
たまたま雪で濡れた縁側の通路の拭き掃除をしていたので、少し話しかけると、遠い都市圏からいらっしゃったという。

吉崎は観光地でもある。隣町は温泉街だ。
つい、「旅行のついでにいらっしゃったんですか?」と聞くと、「いえ吉崎に来たくて朝電車に乗ったんです」とおっしゃる。
この、吉崎にお参りに来たくて、日帰りのつもりでいらっしゃったという。

「もしお時間があるのでしたら、すこし吉崎と蓮如さんのお話をしましょうか?」と尋ねると、嬉しそうに座ってくださった。

三十分ほどであろうか。ストーブをつけたとはいえ、寒い本堂の中、たくさんの話をした。吉崎と蓮如さんの話。蓮如さんが口やかましくおっしゃった『後生の一大事』の話。すべて、慈海が聞いた話の受け売りだ。しかし、慈海が驚いた話でもある。慈海がよろこんだ話でもある。それは、過去無数の方々が、同じように驚き、喜ばれた話であろう。この慈海を仏にするという話であった。

「こんなご縁にあえるなんて」
とよろこばれて、何度もお互いに合掌しながらお別れした。

こんな出会いが、昨年の四月、この吉崎、蓮如さんのもとに住み込みでご奉仕するようになってから、ある意味「逃げついて」から、幾度と無くあった。

まちなかのコンビニであろうとも、僻地と言われるこの吉崎であろうとも、同じ場所であったかもしれない。同じく、やはり、コンビニ坊主であるのだろうかと、デイサービスの施設でお取り次ぎしながら、ゆっくり、自分の中に聞こえてくださったこれまでの言葉を解き、そしてまた紡いで、始終手を合わせてうなづきながら聞いてくださる人生の大先輩方の前で、この「おみのり(御法り)」を、伴にお聴聞した。

お念仏を勧められるこの「教え」というのは、ああ、ほんとうに、面白いぞ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

御正忌報恩講がくると、新しい年が始まったなぁという気持ちになります。

1月14日、毎年この日は三国町にある憶念寺さまで「御正忌報恩講」が勤修される。四年前から、こちらでのご法話お取り次ぎをお任せくださっている。

「御正忌報恩講」というのは、1月16日にご往生されたご開山親鸞聖人のご命日法要のことで、ご本山の本願寺(西本願寺)では毎年1月8日から16日まで、この法要がお勤まりになっている。

いわば、キリスト教様のイベントで言えば、イエス・キリストさまの誕生をお祝いされるクリスマスのような行事といえば、わかりやすいかもしれない。

ご命日を誕生日と同じというと、おかしな感じがするかもしれないけれども、日本では誕生日よりも、命日を大切にする事のほうが多いのではないだろうか。亡くなった方の誕生日を祝う行事というのは少ないけれども、亡くなった日つまり命日に法要などを行うのは、日本文化が仏教文化と密接であるからであろうか。どうだろうか。

まぁ、文化的にどうかは知らないけれども、少なくとも、私らお念仏の同行(どうぎょう)は、死を無に帰する出来事とは捉えない。浄土に生まれる日と聞かされている。つまり、真実に生まれていく本当の誕生日が、命日ということか。

であるから、ご開山聖人がお浄土にお生まれになっていかれたこのご命日を盛大にお祝いし、ご開山聖人が示してくださった浄土往生の道、生死を出ずる道の教えのご恩を改めて報(しら)され、また、その御恩にお礼を告げるのが、この「報恩講」という法要であった。

慈海にとっては、ここ数年は、毎年今日が、ご法座でのお取り次ぎ始めとなっている。今日のご法座が済むと、ああ新しい年が始まったなぁという実感がやっと湧いてくる。

いつもなら、この後15・16日とご本山にお参りに行くのであるが、今年は吉崎別院で16日にこの御正忌報恩講がお勤まりになるので、残念だけれども、ご本山へ上がるのはご無礼することになる。

一年で最も寒い時期である。
今朝のお晨朝勤行は特に冷えた。風もおそろしくお御堂を揺らすなかであったけれども、この寒さの中であっても、口に世事を交えずただ仏恩の深きことをのみおっしゃってられたというご開山聖人を思うと、また背筋が伸びる思いであった。もったいないことやなぁ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

聞くこと、語ること

夕方、お御堂の掃除をしているとふらりと本堂に入ってこられた方がいらっしゃった。慈海より少し年上くらいだろうか。

じっと仏様を見上げたあと、頭を垂れ、熱心に手を合わせてらした。

隅の方でそうっと掃除を続けていたけれども、なんとなく気になって、
「お経一巻聞いて行かれますか?」
と声をかけると、
「はい」
との返事。聞けばご家族を数ヶ月前に亡くされたとのこと。

一旦片付けた香炉をもう一回出して、作務衣から法衣に着替え、阿弥陀経様をいただく。

読経中時折後ろから小さくお念仏が聞こえる。

読経後、
「せっかくですから、少しお話させてください」
と、阿弥陀経様のお話をすると、何度もご本尊を見上げながら静かに聞いてらした。

「なんだかほっとしました。」
と初めて笑顔を見せて、何度も何度も頭を下げながら帰って行かれた。

傾聴という言葉が昨今もてはやされるが、それは受けきれる覚悟のある方にしかできないことではないだろうか。

慈海には受けきれる覚悟も、聴ききる勇気もないけれども、慈海が聞いてきた「正しく受けきれる方」つまり如来様の話ならできる。一緒に聞くことなら、できる。それしかできないのだけれども。

慈海が一方的に話すばかりで、多くを語る方ではなかったけれど、きっとたくさん如来様に話していかれただろうな。

お寺があるって、いいよね。

なんまんだぶ

「さみしさ」を思い出す

涼しくなってきたとはいえ、まだ日中は冷えたむぎ茶が欲しくなる。

日に日に長くなる秋の夜、明日の分のむぎ茶を作っておこうと、やかんに水を満たし、火にかける。虫の音を聞きながら、ぼんやりとそのやかんを眺めつつ、お湯が沸くのを待つ。

しばらくして、やかんがクツクツと音を立て始め、ふと「さみしさ」を思い出す。

そうか、慈海も独りであったな。

母の「モノ忘れ」が、少しずつ、ゆっくりと、ゆっくりと、進行しているらしい。

「モノ忘れ」の進行を遅らせる薬は飲んでいるらしいけれども、日を重ねるごとに「モノ忘れ」が顕著になっているようだ。薬の効果のおかげでそれでも進行が遅くなってはいるのか、それとも期待しているほどの効果が出ていないのか。

父から電話がある度に、いつも父は小声で慈海に訴える。

「おい、そうとうひどいぞ。」

こんなことがあった、あんなことがあったと矢継ぎ早に最近の母の「モノ忘れ」の様子を訴える。父は父で、そんな母との生活に、かなり参っているのかもしれない。慈海はウンウンとただ聞くだけである。

「モノ忘れ」を母本人も自覚するときがあると言う。そんな時は、ひどく落ち込むのだそうだ。

「なんで私こんなんなってもたんやろ……」

自分で自分を信じられない情けなさに、苛立って自分の腕に噛みついたり、物を投げつけたりして、ポツリとそう言うのだそうだ。

「もつけのうてなぁ(福井弁:かわいそうでなぁ)」

電話越しでも、父が泣いているのがわかる。

自分が壊れていく感覚なのだろうか。それは、世界が崩壊していくことと同義だ。いや、もしくは、自分だけが世界からこぼれ落ちていくような感覚なのかもしれない。それは絶対的な「さみしさ」であろう。

ふとしたきっかけで、その「さみしさ」を母は思い出すのだ。

どれ程の恐怖であろうか。

しかしその「さみしさ」のために、泣いてくれる人がいる。父がまさか、母のために涙を浮かべることがあるなんて。

いずれ、慈海の顔も忘れてしまう時が来るのかもしれない。父のコトさえも忘れてしまう時が来るのかもしれない。

そうなったとき、慈海は何と母を見ることができるのであろうか。何と言葉を発するのであろうか。

「あんた!寝たきりになったとき、誰も面倒見てくれんかったらどうしよう。」

「だから、そうならんように薬もらってきたんやろ」

「違う。あんたのコトや。」

アルツハイマーの診断を受け、人生で最も恐怖を感じていたであろうその時の、母の言葉であった。

なんまんだぶ

蚊を潰す。

涼しくなってきたからか、蚊が多い。
ぶんぶぶんぶとやかましい。

少しくらいなら、かゆいのもうっとうしいのも我慢して、殺すもんかと無視を決め込むけれども、あんまり多いので、潰す。

潰すならまだしも、殺虫剤を買ってきて、シュッとひと吹き。
今は、たった一回ほんの少し指を動かしてシュッとするだけで、12時間蚊を落とすというすごいのが有る。

しばらくすると、ぶんぶぶんぶとうるさかった音が、やたら高い音に変わり、狂ったように天井に飛んで行ったり床に急降下したり、激しく飛び回って、姿を隠そうともせず、そのうち床でくるくる回り始める。

じっと観察していると、なかなか死に切れないのか、足をばたつかせ、羽を激しく震わせて、なんとも酷い。

酷いのを見るのも、酷い原因となった自分を知るのも嫌なので、それをまた潰す。潰したあとの死骸は、ティッシュで拭きとってポイッとゴミ箱に入れる。そしてなかったことになる。

これと同じことを、心のなかで人にもしている慈海がいるのだ。

無関心ということは、平穏であるということである。
興味があると、平穏ではいられない。

菩薩というのは、好奇心の塊なのかも聞いたこともあったけど、興味を持ち続けるということは、よほどしんどいことだろう。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

なんまんだぶ

晴れた日の朝

朝、吉崎別院の境内を掃いていると、お若いかたが門をくぐってこられた。

東の空が明るくなってきたとはいえ、まだ日も顔を出していない時間だ。

そうそう頻繁ではないけれど、たまにこうして早朝からお話しする機会がある。

訪れる方は別々だけれど、朝、日中、夕方、そして暮れた後など、その時間帯によって雰囲気も変わる。

朝お会いする方は、おしなべて笑顔だ。それも、さっぱりとされた顔をされていらっしゃる。

お若いかたの爽やかな笑顔が去った後、落ち葉を掃きつつものを思う。

かつて、朝が来るのが憂うつな夜もあった。

日が登ると、ため息をつきながら恨めしく苦々しく眩しい空を眺めたときもあったけれども、それでも朝は必ず毎日きちんと欠かさず訪れた。

晴れた日の朝はいいね。そんな夜でも、恨めしい朝日が、照らすものというものもある、のかもしれない。

なんまんだぶ

向日葵(ひまわり)

 

夕方、ひと雨来そうな空模様の下、急いで掃除道具を片付けていると、とうとう大粒の雨が降ってきた。

まだ明るい西の空を、かあかあと舞っていた群れが慌てて鹿島の森に帰っていく。

帰る場所があるのはいいね。それが場所でも記憶でも。

本降りになってきたので、館内を見回って窓を閉めて回っていると、父から電話。

先日、庭に咲いた向日葵の写真をNHKに投稿し、それが採用されて、これからNHKの天気コーナーのあとで紹介されるのだという。父の声が久々に明るい。

ここ吉崎に来て始めてテレビのスイッチを入れた。

父が育てた背の高い向日葵が写る。きっと今ごろ実家では、父と一緒にテレビを観ている母が父以上に大騒ぎして、父は照れ混じりの苦笑いをしていることだろう。

実家の仏間に「葵傾(きけい)」という時の讃額が掲げてある。若い頃父がその字の意味をお手次のお寺さんに尋ねたところ「向日葵がいつも日に顔を向けているように仏様の方を向いていきましょうという意味ですよ」と教えてもらったそうだ。*

仏間で話し込んでいるといつも父はこの話をする。

きっと、向日葵の世話をしながらもその話を何度も思い出しつつ、背がどんどん伸びていく姿を楽しみに眺め、そして大輪の花を咲かせるのを心待ちにしていたんじゃないだろうか。

明日は、久々に両親と食事をしよう。

なんまんだぶ

*「葵の御紋」から幕府に対する忠誠を云々という説もあるそうだが、ここではそういう話ではないので知識の鎧は一旦脱いでお読みください

ゼリー

「あっついのぉ!」

そういいながら父と母が吉崎の花壇の世話を手伝いに来てくれた。

「これ冷蔵庫いれとけや」と段ボール箱を渡され、なかを覗くとペットボトルのジュースとたくさんのゼリーが入っていた。

ーありがとう。でもなんでゼリーこんなに(笑)

と言うと、「お前ゼリー好きやってお母さんが買って入れたんや」と父。母が草をむしりながら「好きやんなぁ」とニコニコ顔。

正直なところ、慈海はゼリーが嫌いではないけど別に好物でもない。母に最近ゼリーが好物だと言った記憶もない。

そういえば、昔から「はい、あんた好きやろ」と、母がゼリーを買ってきてくれる事がよくあった。その度に、別に好物って訳じゃないよと笑って言っていたけれども、でもしばらくすると、また「はい、あんた好きやろ」と買ってきてくれる。

慈海は忘れてしまっているけれども、もしかすると幼い頃とかに喜んで食べていた事があったのかもしれない。もしくは、何気なく自分で買ってきていたのを母が見かけて、この子はゼリー好きなのねと思い込んだのかもしれない。

少し前までは、そんな母の勘違いを笑ったり、何度言っても買ってくるのをもったいないといったりしていたけれども、慈海が忘れてしまっている自分自身の姿が、ぼけ始めた母の頭になかにはきっとしっかりと刻まれているのかもしれない。

そして、本人さえ忘れてしまっている、その息子の喜ぶ顔をまたみたくて、喜ばせようと、何度も何度も、「あんた好きやろ」とゼリーを買ってきてくれているのかもしれない。

そんな、自分が忘れてしまった母の中の自分を思いながら、差し入れのゼリーを食べる。

ゼリー、おいしいな。

なんまんだぶ

死ぬ話・わからない話

先日、叔父の葬式があった。

先月も親戚のおばさんがお浄土に参られたばかりだ。あわただしくまた帰郷してきた父の曰く
「お浄土の方にいってしまった人の方が多くなったなぁ」

昨日は、となり町のお寺さんでの御正忌報恩講で、御法話取りつぎの大役を仰せつかっていた。叔父の悔やみに駆けつけたあと、そのお寺さんに走った。

「これから、わからない話をします」

そう切り出した話は、死ぬ話であった。
深川和上は
「死ぬ話はいいねぇ」
とお話しされたそうだ。

叔父の遺体を、どうみても死んだとしか思えないその姿を思い出しながら、「死ぬ話」をする。

「どんだけ考えても、考えても、考えても、死んだとしか思えないけれども、仏様はお浄土に生まれたとおっしゃる。こんなわけのわからない話はないです。」

わからない話はいい。
わかる話はいずれ忘れるもの。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ