仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。
(仏法に深く帰依した人がいいました。「仏法は、若いうちに心がけて聞きなさい。 年を取ると、歩いて法座に行くことも思い通りにならず、法話を聞いていても眠くなってしまうものである。だから、若いうちに心がけて聞きなさい」と。)
先ほどのこと、東京に住む父から、慈海と住む母に電話がかかる。
「声聞きたいって」
と、母から携帯を渡されたので、ふざけて『末代無智章』の御文章を暗唱しようとした。
すると父は、
「ちとまて、ほれなら全部言えるぞ」
と、すらすらと暗唱し、
「なんで俺憶えてるんやろ。やっぱあれやなぁ、子供の頃になんべんも聞いて憶えたもんやからやろうなぁ。」
と、自画自賛するのであった。
憶えが悪うなった、間に合わんなってきたと常に嘆いてばかりいる母も、お勤めの時にご文章拝読すると、手を合わせて頭を垂れ、畳の目に視線を落としたまま、ぶつぶつと一緒になってつぶやいている。
もう何年も前に既にお浄土の住人になられた親戚のおじいさんは、ご文章の言葉をいつでもスラスラと諳んじられたそうだ。
たくさんの世間を渡るための言葉を知って、たくさんの道具としての言葉を使うようにはなったけれども、そのどれもがもいずれ間に合わなくなっていくのだろう。
後生のこと、自分がいく先のことを、しらせてくださる言葉を、知っていると言うのは、なんとも心強いことかもしれない。
目が見えづらくなった時、耳が遠くなった時、どの言葉を拠り処にして、慈海は生きるのだろうか。
なんまんだぶ