大阿呆になる勉強

19時から夜中過ぎまで続く、週に一度の勉強会。

真仏真土文類から、涅槃経をひらいて、講義録を頼りに進めているのだけれども、「釈迦といういたずらものが世に出でて……」の一休禅師の言葉通り、めちゃくちゃである。

そんなめちゃくちゃな世界を、言葉頼りに窺おうとしてるわけだから、一行進むのに一時間、いやもっとかかったりするときもある。とたんに椅子の回りに辞書やらお聖教が散乱し、あっち引いたり、こっち開いたり、あれを読んでは線を引き、これを読んではひっくり返るの連続である。

そして、何を得るかといえば、なにも得ない。
なにも為にも得にもならんことを学ぶ。

阿呆になる勉強である。

最近、慈海はなにか変わったかと聞かれ、
「なにも変わってはいませんし、変わらんことを知るばかりです。でも、少しだけ驚きやすくなりました。」
と答えた。

勉強会の帰りには、いつも「御恩報謝の遊び」をやるのが恒例だ。

玄関先で手を合わせて慈海は言う。
「林遊さんに手を合わせてるんじゃないですよ。林遊さんを包む大菩提心に……」
大抵ここで「アホー!」とスリッパで叩かれて、なんまんだぶ なんまんだぶ またくるよーと、笑いながら玄関を出る。

それもなんだか飽きてきたので、今夜は少し変えてみた。

「あんさん、後生なんともないか。夜明けさせてもろたか。なんまんだぶ、しねの。」

「誰に向かって言うとるんじゃ!」

「今こんなじいさんに、後生の一大事言うてくんなるもん、えんやろ!」

師とは呼ぶが、その実同じお念仏の行者である。
なんて慈海が言うと「お前が言うことや無い」とまたスリッパが飛んでくるけど、得たもの比べるんなら、得たものの多い方が偉いだろうけど、そんな話をしているんじゃなかったから、スリッパくらいいくらでも飛んできていいのである。

この道に入ったとき(まぁ、この道なんてそんな道はないのだけど、言うなればお念仏の話を聞き始めたころ)、おそるおそる見よう見まねのお念仏をしたら、「おお、ここにもお同行がいらっしゃったか!」と言われ、とても嬉しかったのをおぼえている。

この御法義は、頭がいくつあっても足りんくらい難しい。それにかこつけて、難しいのを難しいと言うだけでは、ただのアホである。

いまこの勉強は、無力を掲げた、ただのアホになる勉強じゃぁなかった。

浄土に往生させんとする、まぁまともな頭やったらそんなわけあるかい!と放り出すような、そんな話を聞く、大阿呆になる勉強やった。

なんまんだぶ なんまんだぶ