「汝としての我の発見」

五年前には想像だにしていなかった今だから、五年後にはどうなってるかなんてわからない。

たとえもし、五分後に必ず死ぬよと言われても、きっとその五秒前まで、自分が本当に死ぬとは思わないだろう。

自分が生まれてきた年月日、場合によっては秒までも、知っている人はいたとしても、自分がこの世に生を受けたその瞬間を知っている人はいるのだろうか。

父母が生まれる前の「私」というのは誰だろうか。今もし記憶が全て消えて無くなって、自分の名前も顔もわからなくなってしまったとしたら、「慈海」は本当に「慈海」と言えるのだろうか。

夏しか知らない虫は、夏を知ることはない。朝しか知らない花は、朝を知らない。

今「慈海」を「慈海」と呼ぶこの「慈海」は、本当に「慈海」を知っていると言えるのだろうか。

どこにもいて、どこにもいないこの我は、誰にも知られず、誰もが私だ。

汝と呼ぶ声がある。

「汝としての我の発見」と聞いた。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ19