変わらない私と言う存在(もの)

3年半ほど前、こんな文章を書いていた。
下記、そのまま転載。

 

坊さんになって10ヶ月。

あっという間に1年がすぎて、あっという間に数年経って、気がつけば惰性で坊さんやってるようになってるのかもしれない。

 

どうして坊さんに成ったのかという理由も忘れて、

分かってるふりがうまくなって、

お話もそれっぽい話をしゃべるのにこなれて、

坊主のコスプレも、坊主のフリも板についてきて…

 

嘘を付くことに慣れて、

自分も他人も欺くことばかり上手になってしまった私は、

いつも振り返ると、

何も変わっていない自分に気づきます。

 

どれだけ過去を悔いても、

どれだけ自分を呪っても、

何も変わって来なかった、私自身。

 

先日取材を受けました。

「念仏に出遇って変わったことは?」

という質問に、

「何も変わっていません」

と答えました。それは、正直な気持ち。

でも、こう付け加えました。

「あえて、変わったところを言うのであれば、何をしても私は変わらないんだな、ということを知らされた、ということでしょうか。」

 

私は、きっと変わらない。

私の根幹は、変わることは無いだろう。

 

それは、だからといって「このままでいい」と逃げることではない。

 

変わらない私と言う存在を、

恐れなく、そのまま観ていくということなのかもしれない。

 

阿弥陀さんは、そのまま来いという。

わたしは、このままではいけないともがく。

もがく私を、また、そのまま来いよと呼ぶ。

私は、もがきながら、なんまんだぶ とつぶやいていくだけ。

 

なんまんだぶ があるところには、そこは、もがくことの、喜びがあるのかもしれない。

 

きっと、私自身は変わらない。もがきながらも、変わらない。

変わらないことを知りながらも、もがいていくしかできない。

だって、生きるってことは、もがくってことだもの。

だから、阿弥陀さんは、なんまんだぶ って呼んでくださっているんだもの。

 

私はこの先、どんな僧になっていくんだろう。

 

もがき、もがき続けながら、もがく自分の姿を、そのままさらけ出していける僧になりたい。もがきながら、お念仏を申し続ける、ただ、ただ、なんまんだぶ と繰り返す、臭くとも、念仏香る僧になっていきたい。

 

そこには、慣れも、フリも、惰性も、存在しない。

 

合掌

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ