車を走らせていたら窓からバッタが飛び込んできた。
急に飛び込んできた乗客に慈海も少々慌てたけれども、緑の草原を飛び回っていたはずがなぜか見慣れない景色に閉じ込められた状態になったバッタの方もびっくりしただろう。助手席の上をウロウロと歩くバッタを、運転に気を付けながらチラチラと眺めていると、なんだか可笑しくも愛おしい気持ちにもなった。
運転中なので手でつかんで外に出すわけにもいかず、自分で出て行ってくれたらいいなと窓をすべて全開にしたら、しばらく躊躇した様子を見せたあと、「ばたたたっ!」と窓から飛び出ていった。
再び緑の景色に戻った彼だか彼女だかは、ほっとしているだろうか。今起きた数分ほどの出来事が、まるで夢の中の出来事だったかのように思えているだろうか。それにしても、その夢から覚めた時には気が付けば元いた場所とは違った見知らぬ場所。いったい自分に何が起きたのかさえも分からないまま、また緑の草の中を飛び回っているのかもしれない。
如来様のご縁に「あう」ことは「遇う」という漢字を用いて書かれることが多い。
「遇」の字には”たまたま”とか”思いがけなく”の意味がある。だから「遇う」には単に「出会う」というだけではなく”思いがけなく会う”という意味があるそうだ。ちなみに部首にある「禺」は”両方から”という意味だそうで、「遇」の字には”両方から会う”という意味もあるようだ。*
出会いがしらに偶然、ひょっこりと出会うということ。そこには驚きがある。出会うことを全く予期しないもの同士が、ばったりと出会うのだ。まるで先日のバッタと慈海だ。バッタだけにバッタリ……(;’∀’)ゲフンゲフン…
如来様のご縁にたまさか遇って、作願の大船に乗せられて、降りてみたらまたこの娑婆世界であった。まるでお浄土参りじゃなかろうか。
そんなことをバッタが車から降りていった後にぼんやり考えてたら、楽しくなってまたお念仏が自分の口から聞こえてきた。それにしても、もしかするとこの私が如来の御名を「なもあみだぶつ」と口ずさんでいることに、如来様の方も、奇なるかな!と慌ててらっしゃるのかもしれない。
なんまんだぶ