【貰いきる】
「恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ」
そう慈海は聞かされた。
得度の後、京都の御本山から、地元福井の吉崎別院まで歩いた。
7日間の行脚であった。
出発する前、いつも法を聞かせてくださる方に、出発の挨拶にうかがった。
その時に、上の言葉を聞かされた。
「行脚するということは、いろんな方にお世話になるであろう。
お前は、お世話になることに、お返しのことばかり考えるであろう。
時には、恩を受けることを断ることもあるかもしれん。
それは、時として失礼である。
恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ。」
何かを貰うと、お返しを考える。
お礼をしなければと考えて、お礼とお返しをすると、スッキリする。
恩を、やり取りの道具にしてはいけない。
恩は、モノではない。
恩は貰いきるのが、礼儀だ。
初詣、初参り。
お賽銭を投げ入れ、手を合わせ、願い事をする。
それはいい。
しかし、注意すべきは、神仏は自動販売機ではないということ。
お金を投げ入れ、これがほしいとボタンを押せば、願ったものが出てくることを期待する。
順番が、逆である。
こちらが願う前に、すでに願われ、守られているのだ。
恩は、知らぬ間に貰っているもの。
自分が気づかぬところで、いつの間にか、賜っているもの。
お返しばかりを考えると、色も形もない「恩」に、自分勝手な価値を付け始める。
恩は貰いきれ。
貰っている恩というのは、決して返しきれるものではない。
だから、手を合わせるのであろう。
この私には、手も出せません。何もお返しすることさえもできませんという姿。
なんまんだぶ は、恩を返す言葉ではない。
なんまんだぶ と称えると、あちらのほうから、それを、御恩報謝とされてくださる。
なんまんだぶ