• お知らせ
  • 聞見会新聞
  • 口耳四寸記(慈海ブログ)
  • 聞見会について
    • 聞見会について
    • 「聞見会」という名称
    • 寄付のお願い
  • 動画
    • 御文章どうでしょう? 01 はじめに
    • 御文章どうでしょう? 02 「聖人一流章」(1)
    • 御文章どうでしょう? 03 「聖人一流章」(2)
    • 御文章どうでしょう? 04 「聖人一流章」(3)
聞見会

お念仏の会

貰いきる

2014年1月6日 by 慈海

貰いきる

【貰いきる】

「恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ」
そう慈海は聞かされた。

得度の後、京都の御本山から、地元福井の吉崎別院まで歩いた。
7日間の行脚であった。
出発する前、いつも法を聞かせてくださる方に、出発の挨拶にうかがった。
その時に、上の言葉を聞かされた。

「行脚するということは、いろんな方にお世話になるであろう。
お前は、お世話になることに、お返しのことばかり考えるであろう。
時には、恩を受けることを断ることもあるかもしれん。
それは、時として失礼である。
恩は貰いきれ。貰いきらんのは失礼ぞ。」

何かを貰うと、お返しを考える。
お礼をしなければと考えて、お礼とお返しをすると、スッキリする。

恩を、やり取りの道具にしてはいけない。
恩は、モノではない。
恩は貰いきるのが、礼儀だ。

初詣、初参り。
お賽銭を投げ入れ、手を合わせ、願い事をする。
それはいい。
しかし、注意すべきは、神仏は自動販売機ではないということ。
お金を投げ入れ、これがほしいとボタンを押せば、願ったものが出てくることを期待する。
順番が、逆である。
こちらが願う前に、すでに願われ、守られているのだ。

恩は、知らぬ間に貰っているもの。
自分が気づかぬところで、いつの間にか、賜っているもの。
お返しばかりを考えると、色も形もない「恩」に、自分勝手な価値を付け始める。

恩は貰いきれ。
貰っている恩というのは、決して返しきれるものではない。

だから、手を合わせるのであろう。
この私には、手も出せません。何もお返しすることさえもできませんという姿。

なんまんだぶ は、恩を返す言葉ではない。
なんまんだぶ と称えると、あちらのほうから、それを、御恩報謝とされてくださる。

なんまんだぶ

共有:

  • クリックして Twitter で共有 (新しいウィンドウで開きます)
  • Facebook で共有するにはクリックしてください (新しいウィンドウで開きます)
  • クリックして Tumblr で共有 (新しいウィンドウで開きます)
  • クリックして印刷 (新しいウィンドウで開きます)

関連

カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 書

最近の投稿

  • 灯台もとくらし
  • 学習能力が無い
  • そしてまたご一緒に
  • だからねぇ……
  • 忘れるってことは、悪いことばかりじゃないです

アーカイブ

2025年6月
月 火 水 木 金 土 日
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  
« 7月    

Copyright © 2025 聞見会.

Omega WordPress Theme by ThemeHall

 

コメントを読み込み中…