「お聴聞ちゅうのは、響きを聞くんやろうなぁ」と、聞いた。
何を間違ったのか、私は釋慈海という法名を賜り、袈裟をかけるような者になっただけでなく、如来様の前で、御法(おみのり)をお取り次ぐことがたまにあるようになった。
「法話ちゅうのはな、教え聞かせると思うたらあかん。お前は教えの位に立つな。そんなもんは、祖師方、ご門主様方の役割や。取り次ぐちゅうことは、お前が聞かせてもらうんやろうなぁ。」
聞いた話を、「そのまま取り次ぐ」と言うのは、難しい。どうしても、自分の言葉で語りたくなる。
今の時代、自分の言葉で語るということが、良いことのように思われるかもしれないが、御法の前に、慈海というキャラクターは必要ない。
「いいお説教ちゅうのは、スーッとお前自身が消えていって、ただそこに、御法だけがあるようなお説教やろうなぁ」
個性とか、自立とか、そういう世界で生きてきたつもりの私には、なんとも奇妙で、とらえどころのない示しである。
最近、慈海は取り次ぐご法話を組み立てるときは、机に向かわない。
ボーッと頭のなかで、聞いた話を思い出して、聴いたときの響きを
お取り次ぎのご縁がうれしいのは、何度も何度もこうやって、お気
「聴くときは、頭で聴くな、お説教のその響きを頭に鳴らしとけ」
というようなことを、深川和上はおっしゃったそうである。
「わかろうと思って聞くな。わかってこいとは、四十八願どこを探してもおっしゃってなさらん。わかったつもりが一番厄介や。わかったつもりは、自分にお悟りの世界を引き寄せてるちゅうことや。」
これを、疑い、というのかもしれない。
世間知らずの上に、御法義の勉強もままならない、頭の悪いこの慈海が、如来様の前で、如来様の本願力について取り次ぐ。
なんて思うと、とたんに緊張して何も語れなくなる。
頭のなかで響かせた、その響きが、慈海の口から、その響きが、そのまま、濁らず澱まず、こぼれていけたら。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ