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聞見会

お念仏の会

聴聞は、響きを聴く。

2014年6月19日 by 慈海

「お聴聞ちゅうのは、響きを聞くんやろうなぁ」と、聞いた。

何を間違ったのか、私は釋慈海という法名を賜り、袈裟をかけるような者になっただけでなく、如来様の前で、御法(おみのり)をお取り次ぐことがたまにあるようになった。

「法話ちゅうのはな、教え聞かせると思うたらあかん。お前は教えの位に立つな。そんなもんは、祖師方、ご門主様方の役割や。取り次ぐちゅうことは、お前が聞かせてもらうんやろうなぁ。」

聞いた話を、「そのまま取り次ぐ」と言うのは、難しい。どうしても、自分の言葉で語りたくなる。
今の時代、自分の言葉で語るということが、良いことのように思われるかもしれないが、御法の前に、慈海というキャラクターは必要ない。

「いいお説教ちゅうのは、スーッとお前自身が消えていって、ただそこに、御法だけがあるようなお説教やろうなぁ」

個性とか、自立とか、そういう世界で生きてきたつもりの私には、なんとも奇妙で、とらえどころのない示しである。

最近、慈海は取り次ぐご法話を組み立てるときは、机に向かわない。
ボーッと頭のなかで、聞いた話を思い出して、聴いたときの響きを、頭のなかで、何度も何度も響かせてる。
お取り次ぎのご縁がうれしいのは、何度も何度もこうやって、お気に入りの御法話を、繰り返し繰り返しお聴聞できるからかもしれない。

「聴くときは、頭で聴くな、お説教のその響きを頭に鳴らしとけ」

というようなことを、深川和上はおっしゃったそうである。

「わかろうと思って聞くな。わかってこいとは、四十八願どこを探してもおっしゃってなさらん。わかったつもりが一番厄介や。わかったつもりは、自分にお悟りの世界を引き寄せてるちゅうことや。」

これを、疑い、というのかもしれない。

世間知らずの上に、御法義の勉強もままならない、頭の悪いこの慈海が、如来様の前で、如来様の本願力について取り次ぐ。
なんて思うと、とたんに緊張して何も語れなくなる。

頭のなかで響かせた、その響きが、慈海の口から、その響きが、そのまま、濁らず澱まず、こぼれていけたら。


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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カテゴリー: 口耳四寸記 タグ: 法話, 言葉

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