夕方、お御堂の掃除をしているとふらりと本堂に入ってこられた方がいらっしゃった。慈海より少し年上くらいだろうか。
じっと仏様を見上げたあと、頭を垂れ、熱心に手を合わせてらした。
隅の方でそうっと掃除を続けていたけれども、なんとなく気になって、
「お経一巻聞いて行かれますか?」
と声をかけると、
「はい」
との返事。聞けばご家族を数ヶ月前に亡くされたとのこと。
一旦片付けた香炉をもう一回出して、作務衣から法衣に着替え、阿弥陀経様をいただく。
読経中時折後ろから小さくお念仏が聞こえる。
読経後、
「せっかくですから、少しお話させてください」
と、阿弥陀経様のお話をすると、何度もご本尊を見上げながら静かに聞いてらした。
「なんだかほっとしました。」
と初めて笑顔を見せて、何度も何度も頭を下げながら帰って行かれた。
傾聴という言葉が昨今もてはやされるが、それは受けきれる覚悟のある方にしかできないことではないだろうか。
慈海には受けきれる覚悟も、聴ききる勇気もないけれども、慈海が聞いてきた「正しく受けきれる方」つまり如来様の話ならできる。一緒に聞くことなら、できる。それしかできないのだけれども。
慈海が一方的に話すばかりで、多くを語る方ではなかったけれど、きっとたくさん如来様に話していかれただろうな。
お寺があるって、いいよね。
なんまんだぶ