キレイな言葉ばかり並べてたまに鬼もかまってあげない
河合隼雄著『影の現象学』を読んでいる。読ん”だ”ではなく、読んで”いる”と進行形であるのは、まだ読み終わっていないからだ。300ページほどの文庫本で、それほどボリュームがあるわけではないのだけれども、少し読んではしんどくなって栞をはさみ、しばらくしてまた開いて数ページ読んでと繰り返していて、読み始めてひと月ほど立つのだけれども、なかなか読み進めることができずにいる。
以前から興味がありながらも、なんとなく購入する踏ん切りがつかず、「その時」が来たら買って読もうと、特に誰かにかってもらうことを期待するわけでもなくアマゾンの「ほしいものリスト」に入れておいた。それを、もったいないことに、とある方が先日購入して贈ってくださった。突然届いた荷物の封を開けてこの書物のタイトルが目に入った時、正直なところギョッとした。まるで「その時は、今ですよ」と言われたような気がした。
最近特に、この「浄土真宗」というものに対して胸の奥に引っかかりを感じ始めていた。「救い」ばかりを説き、まるでこの今私がいるところが浄土でもあるかのような、なんともきらびやかで嘘くさいそんな教説に、嫌気がさしはじめていた。違和感を感じながらも自分自身がまた、その、机上の空論のような「救い」ばかりを口にしていた。それはまるで、この世が、この私が生きるこの娑婆世界が、本来は浄土であるかのようなそんな欺瞞であった。もしくは、この一切皆苦のこの娑婆世界を浄土にでもしていかねばならないようなそんな傲慢さが、また自分の胸の中で激しい嘔吐にもにた感情を誘うのであった。
この娑婆世界に浄土を作るということは、それは同時にこの世に地獄を作るということと同義である。光があるところに影がある。影がなければ光はありえないのだ。この世を浄土にしたいのであれば、この世に地獄を作らなければならない。地獄のない浄土はない。この私が生きている場所が浄土であるのであれば、同じく同時にこの世が地獄でなければならない。
このお念仏の教えを聞くようになって数年。私はこの世界を光としてみながら、私が立っているこの場所の、この世の地獄を、闇に封じていってしまってやいなしないか。
褒められることが多くなった。吉崎に来てからは特にそうである。私は、褒められるような人間ではないから、逃げて逃げて結局吉崎に流れ着いただけのものでしかなかったのではないか。しかし、そう思っていてもなお、褒められると嬉しいのだ。自分自身でさえ認めることのできないこの自分自身を、認めてもらえ、そこにいていい言われること以上の快楽はない。そして、まるでそんな快楽に酔い潰れていくかのように、良い人に思われること、良い僧侶に見られることにばかり、心を使いはじめていやしなかったか。
光ばかりに目がくらんでいたこの慈海の手元にこの本が舞い込んできた。まるで、命のエネルギーというものがあるのであれば、その全てがこの手元の上にのしかかってきたかのようだ。「私」というものがこの活字の中にあるかのようなそんな錯覚さえも憶える。
だから、ページの一枚一枚が、重い。
そんな重いページを開いている途中、「無量寿経」の文字が目に入る。この本の中に、無上の仏国土が引用されていた。あぁ、なんてことであろうか。なんてことで、あろうか。
まさか、まさか、まさか、仏教書でもなんでもないこの本を開いて、嗚咽しながらお念仏が溢れることになろうとは。
今、読みきらねばならない。この本は、今読みなさいと言われている気がする。
なんまんだぶ