母は何度も何度も予定を確認する。
机の上に置いたカレンダーの書き込みを見て、手帳を出して、同じことを繰り返し繰り返し何度も何度も確認し、何度も何度も何度も何度も同じことを父に尋ね続ける。
安心できないのだろう。
確認しても確認したことを忘れてしまい、メモをしてもメモをしたことを忘れてしまい、父に尋ねて理解したこともまた聞いたそばから忘れていく。忘れたことを忘れてしまうので、毎回毎回確認することも、メモをすることも、尋ねることも、その時その時が「初めて」のことなのだ。
疑問に思ったことを何度も同じように疑問に思い、慌てたことも何度も同じように慌てて、不安になったことも何度も同じように不安に感じ、腹を立てたことも、嬉しかったことも、笑ったことも、全部が毎回初めてのことように繰り返す。
「そういえばそんな話したっけ?」とか「そういえば聞いてたわね」ということも無い。完全にその度、その度に忘れていく。
忘れるということは、どういうことなんだろうと、繰り返し繰り返し予定を確認する様子を、もはや機械的に同じように返事をしつつ何気なく観察していると、ふいに母は”どこに”居るのだろうかという気持ちになった。
それは、裏返せば、この私が”どこに”居るのだろうかという恐ろしい不安でもある。
ふとそのことを思い出し、先日お取次ぎした法話で「こちらが忘れても、忘れてくださらん方がいらっしゃった」と、以前聞かされた話を取り次いだ。
そのことさえも、また私自身も忘れてしまうのだろうけど、忘れていない間は、心強いことでもあるし、忘れてしまってもまたそう聞かされたなら、その聞かされた瞬間だけでも、安心できるのかもしれない。不安は消えないけれども、その不安は「安心」の座上にある。
なんまんだぶ