日常の中の、非日常という日常

吉崎での生活が「日常」と思わなくなるくらいに、慈海の日常となっていたようだ。

先週末、仏教婦人会の方々が本願寺吉崎別院での清掃奉仕にいらしてくださった。おかげさまで境内どこもピカピカになり、今朝の朝掃除がとても楽であった。

朝起きて、掃除をして、晨朝勤行(じんじょうごんぎょう、朝のお勤め)の準備をする。炭をコンロにかけ、火をおこしてお御堂の香炉でお参りされた方がお焼香できるようにする。少し汗を拭いて、着替え、勤行。お勤めが終わったら、ひとり朝ごはんをいただく。一人だから簡単な食事だ。

なんとなく、まだこの「お寺ぐらし」の生活に慣れていない気分もあるのだけれども、この”ぐうたら”な慈海が誰かにお尻を叩かれなくても一人で起きて、自然と掃除に体が動く。

今朝は、掃除をしながらたくさん違和感を感じた。
ホースの片付け方、雑巾の場所、ちょっとしたものたちの風景が、いつもの景色と少しづつ違っている。そうか、仏教婦人会の方々が掃除してくださったからだと、改めてそのことに気づいて新鮮な気持ちになる。

見慣れているはずのいつもの景色が、ほんの少し変わるだけで新鮮な気持ちになることがある。
日常の中に、また別の日常が、非日常的に立ち現れて、またそれが日常の景色となっていく。

お念仏の話を聞くと、そんな気持ちになる。

この口から 「なんまんだぶ」と聞こえる風景は、非日常的なことかもしれないけれども、それがまた、日常の景色と溶け合っていく。この無常の身を常に照らす。

なんまんだぶ