たまに母に手紙を送る。
離れたところで暮らしているとはいえ、週に一度は父母と食事をしたりしてちょくちょくと顔を合わせている。だから、あらたまって手紙を書くのも気恥ずかしいのだが、痴呆が進む母にとって息子からの手紙はいい刺激にもなるようだ。むず痒い照れはあるものの、そんな感情を押しのけてたまに手紙を書いている。
用事で父に電話をすると「今泣いて読んでたわ」と笑っていた。早速返事を書いているそうである。
色々と出来ないことも増え、忘れることも多くなり、今後自分がどうなってしまうのか、自分が自分でなくなるような、おそらくそんな恐怖と常に戦っている母ではあるが、筆を持つと「自信」を取り戻す。
これまでと同じように返事を書いたことはおろか、息子から手紙が届いたことさえも明日朝には忘れてしまうかもしれないが、何か嬉しいことがあった感情だけは心に残っていて、機嫌がよくなるようである。そして、たまに引き出しから忘れてしまっていたその手紙を見つけ、「あらこんなのもろてたんやわぁ!」とまた新鮮な気持ちで読んで涙ぐんでくださるのであろう。
「忘れる」ということは、ときに幸せなことでもあるのかもしれない。
会えばいつも同じ話を繰り返し、「あんたここだけの話やけど」を何十回も繰り返してはまた同じ話が始まる。一緒に生活している父にとってはまるで苦行のようであるそうだが(笑)、文句も愚痴だけでなく、喜びまでも、何度も何度も新鮮に味わっているのかもしれない。
母の息子であるから、慈海もいずれ同じにように痴呆になるのかもしれない。
今、母が見せてくださっているように、なんども同じことに腹を立て、なんども同じことに悲しみ、なんども同じことに喜ぶようになるのであろうか。
慈海には手紙を書いてくれるような子はその時にはいないであろうが、今とりかえしとりかえし戴いているこの蓮如さんからのたくさんのお手紙(文章様)に、なんども同じように頭が下がり、なんども同じように喜べる、そんな爺になりたいものだ。
自分が何者かも忘れ、どこにいてどこに向かっているのかさえもまたわからなくなったその時に、「摂取不捨」のすくいを新鮮に驚けるのは、すこし楽しみかもしれない。
そのときに、慈海の口からお念仏が溢れてくれたら。
なんまんだぶ