母がボケていく。まだ70代前半であるけれども、刻々と痴呆は進行して、すでに忘れたことさえも忘れてしまうようになってきた。
何かを見て、また何かを聞いて感じた、恐ろしいとか楽しいとか悲しいとかそういったことも、口からそれを言葉にした瞬間からすぐに忘れていく。いや、もしかすると、言葉にする前の、言葉になる前のその感情さえも、口から出す前に忘れていってしまっているのかもしれない。
そして、嬉しいか、嫌か、といったモヤモヤとした、なんとなく微かに残ったそれら感情の残骸だけが、まるで澱のように心の壁にこびり着いているかのように、それら感情の残骸に触発され、何に腹を立てたのか、何に喜んだのかも忘れたまま、また得体の知れない感情を、繰り返し繰り返し繰り返し作り出して、漠然とした情動に振り回され続けている。
しかし、そのことさえも、また忘れていくのだ。
母が感じた感情は、一体どこに行ってしまうのだろう。母が感じ、思い、考えた「それら」は、母の記憶とともに、消えて行ってしまうのだろうか。なかったことになってしまうのだろうか。
私はどうだろうか。いずれ、母と同じように忘れていくようになるのだろうか。いやもしかすると、もうすでに、忘れたことさえも忘れてしまっていることが、無数にあるのかもしれない。そう思うと、いいようのない恐怖を感じた。母は、常にこの恐怖と戦っているのか……。
そもそも、感情も思考も、全く同じカタチのままでこの頭の中、胸のうちにずっととどまっているわけではない。忘れてしまう、消えてしまう以前に、それら感情も思考も、刻々と刻々と他の思考や感情、そして無数にこの体の中に刻まれていく刺激によって、影響され、化学変化を起こし、分化し、統合し、再結合し、変質し、構築され、また分断されといったように、そのカタチを変え続けている。
いや、もっと言えば、その、今私が考えたこと、感じたことさえも、何かの刺激によって、無数の刺激によって集められ起きてきただけのものであったのだろう。一つの感情、不変の思考という、固定化された、変化も変質もしないそういったものは、なにもないのだろう。
忘れていくということは、どういうことなのだろうか。
それらの無数の関係性の循環が切れてしまうということなのだろうか。すべての関係性の中で紡がれてきた、まるで糸のようなその連続性が、ぷつりとそこで切れてしまうようなことなのであろうか。切れてしまった瞬間、すべての関係性はそこで消滅し、全てなかったことになってしまうのであろうか。
この宇宙の理が、この世界というものが、もしそうなのだとしたら、そんな空虚な世界を私が生きていて、生きていると思い込んで、いるのだとしたら、それは恐怖である。空しさという恐怖。これほど恐ろしいものはないかもしれない。もし地獄というあらゆる肉体的精神的な責め苦を無尽蔵に味わわされるようなそういうところがあるのだとしても、そんな地獄よりも恐ろしいことが、この「空しさ」という恐怖かもしれない。痛みも苦しみも何もかもが、無意味で、無意味という意味も無い、そしてそれが有るとも無いともいうことも無い世界に、この私は佇んでいるのだろうか。
だから、必死で自分の思考を言葉にし、感情を誰かに伝え、私はここにいる、私はこんな存在だ、私を見てくれ、私を知ってくれ、今この瞬間の私を世界中が知るべきであると、もがき続けている。誰かに知られることが、誰かに認められることが、唯一その「空しさ」という恐怖から逃れるすべであるかのように。しかし、それさえも、空しさの世界のなかでのことであるのだ。誰かに知られたとしても、その知られたこと、思われたことさえも、また空しいものでしかない。
消えて行くこの思考や感情、この「私」と思うアイデンティティは、どこに向かっているのだろうか。私が「私」と思うこの私は、一体どこにいて、どこに向かっているのだろうか。
これを、仏教では「無明」というそうである。
「なんか、私もうアカンのやわ……。なんかもう、何もわからんなっていく」
この無明に対する絶望を、母は漠然と言葉にする。
「お母さん。忘れてもいいんやざ。アカンなってもいいんや。私もきっといずれそうなるかもしれんけど、それまでは私はお母さんのことは忘れんし。そしてもし、私がお母さんのこと忘れた頃には、お母さん、もう先に仏さんになってるやろ。仏さんは忘れんからなぁ。絶対に忘れん。そんな仏さんになったお母さんが、この私のことを忘れんといてくれんから、今は忘れていいんやないか。」
しかし、この空しさに絶望しながら、その空しさを否定せず、空しいものともしない世界があるのだろう。無明を無明のままに照らすこの光は、一体何なのだろうか。
なんまんだぶ
# https://kuz.tumblr.com/day/2017/10/21 より転載