「梨は?」と唐突に尋ねられ思わず「梨が?」
とわけのわからない返事をしてしまった。
今日の午後買い物のため車に乗り込んだら給油ランプが点灯していた。
ガソリン入れなきゃと、近くのガソリンスタンドに寄ると、出てきたのはいつものおじちゃんではなく奥さんらしい方であった。そういえばたしかおじさんはこの時間帯は昼寝の時間だったけかと思いながら、おばさんのナビに従って車を止め、給油カバーを開けながら「レギュラー満タンでお願いします」と告げた。
このガソリンスタンドには猫が沢山住み着いている。ほとんどが捨て猫らしい。「捨てたら面倒を見てくれると思われてか、時折隣の空き地に捨てて行かれてしまうんだよね」と以前おじさんがおっしゃっていた。
「給油の間、猫、見に行っていいですか?」とおばさんに声をかけて車の外に出ると、気配を察した猫達は物陰に隠れていった。何度も挨拶をしているのに、未だにどの猫も慈海の半径5メートル以内には近寄ってくれない。しゃがみこんで遠くから猫に話しかけていると、おばさんがいつの間にか慈海の後ろに立っていた。
「あの子は触らしてくれないのよ。あ、あそこの影にいる子は愛嬌がいいから触らせてくれるかも」
でかい図体のくせに子供言葉、まさしく猫なで声で、話しかけているのを聞かれてしまったのが少し恥ずかしくなりながらも、その愛嬌がいいという猫のほうに向かって手を伸ばしてみたけれども、白と茶色の縞模様のその猫は、こちらをちらりと見ただけで、興味なさそうに寝転がって毛づくろいを始めてしまった。餌でも持ってきたら振り向いてくれるのだろうか?いや、なんか流石にそこまですると”あざとい”だろうか。
諦めて自分の車の方をみると、もう満タンになったらしく、いつの間におばさんは給油ノズルをしまっているところであった。このおばさんは、なんだろう、気配を感じさせない。もしかすると”くノ一”の末裔かもしれない。歴史の闇に消えていった蓮如さんをお守りする忍びの集団が、もしかするといたのかもしれない。そんな妄想をはたらかせながらおばさんに「おいくらですか?」と尋ね、つげられた金額を財布から出していると、「どこの坊さん?」と、忍びの血を引いているかもしれないそのおばさんに尋ねられた。
「どこって、ここです。」
「ここって、どこの?」
「吉崎の西別院です。」
「西別院ってどこ?」
「西別院って、そこのですよ。」
「そこってあの駐車場のすぐのとこの?」
「はい。そこの別院に住み込んでるんです。」
「久しぶりに聞いたわ。」
「別院を、ですか?」
「住み込みって言葉。」
噛み合わないようで噛み合っているようで、やっぱり噛み合ってない気がするそんな言葉をかわしながらガソリン代をおばさんの手に渡しつつ慈海は考える。
もしかして、これは何かの符丁なのだろうか。さり気なく合言葉を求められているのかもしれない。もしくは何か怪しまれて、探られているのだろうか。返しの言葉如何によっては隠し持っていた手裏剣が慈海の眉間に飛んで来るのだろうか。
そんな妄想をしていると、そんな心の中を探るような眼差しで慈海の目をじっと見つめて
「梨は?」
と尋ねられたのであった。
もしかして、妄想なんかではなく本当に合言葉を言われているのだろうか?
ドキリとしながらなんて返事をしていいかわからず、つい「梨が?」とつい反射的に返してしまった。
しまった……
さっき梨を食べたせいで、果物の梨のことかとてっきり早とちりしてしまった。けれども「無しは?」とおっしゃったのかもしれない。これはもしかすると、禅問答的な問いだろうか?こいつは本当に坊主かと探られたのではないだろうか?いや、だとしてもなんて答えれば正解になるのだ。なにが無いことなのだ。信心が無いということか。それとも、無疑心ということか。ああ、いやまて、慈海には結局ほんとうの慚愧が無いとおっしゃりたかったのか!
「ちょっとまってね。傷もんやけどようけある(沢山ある)から…」
慌ただしい脳内に反して、キョトンとした表情の顔のままの慈海に背を向け、くノ一は事務所に戻っていく。
”傷物”とはなんだ。たくさん?慈海にもたしかに脛に傷は少しくらいはあるけれども、所詮あまちゃんで、人生経験だってそんな豊富でもない。え?で?何しに事務所に戻られたんだ?懐の手裏剣じゃなく、長ドスでも持ってくるのだろうか。ああ、信心得たり顔をした慈海に、ぞろりと抜いた長どすの切っ先を突きつけて「あんちゃん、覚悟はええか?」とでも訊かれるのか?
ああ、こたえてやるとも。覚悟なんてこれっぽっちもないさ!小便チビリながら逃げ回ってやる!
「傷もんやけど、たくさんもらったから持っていきね。梨食べるやろ?」
ガサガサと音を立てながら戻ってこられたそのおばさんの手には膨らんだビニール袋があった。覗き込むと沢山の梨が詰まっている。
あああああ、なんてことだ!
本当に”梨”であった。
果物の、慈海の大好物の、みずみずしてくて爽やかで秋の味覚の五本指に入る果物。
これは、梨だ!
「え?えぇ!?下さるんですか?」
「いっぱいもらったさけ(沢山もらったから)持って行きね。傷もんやけど。」
「ああああああありがとうございます!」
手を合わせると、ニコニコ顔で手を合わせ返してくださった。
助手席にそっとその膨れたビニール袋を置いて、もういちど「ありがとー!」と叫びながら車を出す。
後ろから「ありがとうございましたー」とおばさんの声が聞こえてきた。
メーターが満タンを指している車を走らせながら、疑問がむくむくと頭のなかに湧いてきた。
なぜおばさんは急に梨を下さろうとおもったのだろう?
以前にも一度だけガソリンを入れたときに対応してくださったことはあったけれども、たいして会話もしたわけでもなかった。そもそも慈海がどこの誰かさえも、もちろん慈海の名前さえも知らなかったであろう。まさかお客さん全てに梨を配っているわけでもないはずだ。慈海が、坊主の姿(作務衣を着ていたし、昨晩頭も剃ったばかりであった)をしているから?ただそれだけ?別院に住み込みと話したから?
布施ということが頭に浮かびながら、日頃の慈海のだらしないところを思い出す。
シートを少し背を伸ばして座り直し、本当の布施に応えきれるものになることは慈海には永遠にないのだろなと、口に仏名をつぶやくのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……
#今日の出来事をもとにだいぶ創作が入ってます。